2022年7月24日日曜日

20220723 作成したブログ記事に「意味」を与えるものについて・・「詩心」?

ブログ記事の投稿がない日であっても、メールなどで短いものであれ、いくつかの文章を作成する機会があります。しかし、そこでの文章は、大抵の場合、個人宛に作成したものであり、当ブログのように、不特定多数の方々に読んで頂くことを念頭に置いたものではありません。こうしたことは、文章の作成において、あまり大事なことではないとも思われるかもしれませんが、私個人の見解としては、この「誰に向けた文章を作成するのか?」ということは重要なことであると考えています。そして、これを重視する理由は、当ブログ開始当初の頃、このことで苦労をしたという記憶があるからです・・。

この「誰に向けての文章を作成するのか?」といった視座がないままで文章を作成すれば、その文章には、込められた意味や具体性などが乏しくなり、何と云いますか「抽象的なお題目」のようなものになってしまうのではないかと思われます。

それとは逆に具体的な、ある存在に向けた、何かを伝えるための文章を作成するのであれば、それは、我々がメールなどで作成する文章のように(卑近とも云えるような)意味や具体性を持ち得ることになります。しかし同時に、こうした文章とは、あまりにも個別具体的な内容であることから、それを、そのままブログ記事とすることは、大抵の場合、困難であるように思われます。

そうしますと「では、抽象的でお題目のような文章にならず、尚且つ、何らかの意味を持ち得るような文章とは、どのように作成するのか?」と疑問に思われるかもしれませんが、これがまさに、さきに述べた「当ブログ開始当初の頃の苦労」であったように思われます。

この「文章を作成する視座の検討」で苦労したからこそ、当初は書籍からの引用記事を多用し、さらには(現在となっては)ある種の苦肉の策であったとも云える、対話形式の文章による、ブログ記事の作成をしていたのだとも云えます・・。

しかしまた、面白いことに、この苦肉の策であった「対話形式」でのブログ記事作成を続けていますと、何時頃か、ポツポツと、ある題材に基づいた独白形式文章を作成出来るようになり、そして、これをさらに続けていますと、そのうちに文章の方もまた、少しづつ洗練され、時には何らかの意味を持つこともあるようになってきたのではないかと思われるのです・・。

では、この「何らかの意味」とは何であるのかと、考えてみますと、その「意味」自体は作成する文章により異なるため、さらにその背景、あるいは基層にある「心の構え」のようなものが、作成する文章に時々「意味」を与えているのではないかと思われるのです。

そして、この(不特定多数の方々に向けた文章を作成する)心の構えとは、あるいは別のコトバにて表現しますと、それは「詩心」になるのではないかと思われるのですが、さて、如何でしょうか?

*おそらく、現在の我が国社会の多くの場面では、この「詩心」といったものが、曲解あるいは誤解されているのではないかと思われます。

ともあれ、今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

順天堂大学保健医療学部


一般社団法人大学支援機構


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