明治時代のおもな選択的変化のうち、まだ考察していないものがひとつある。それは、西洋列強の領土的野心の対象になっていた日本が、海外への領土拡大と軍事的侵略をおこなう国に変貌を遂げたことである。これまでみてきたように、江戸時代の日本は鎖国政策をとり、海外の領土を占領しようという野望はもっていなかった。1853年の日本にははるかに強大な軍事力を備えた西洋列強からの脅威が迫っていた。
しかし、1868年に明治時代に入って、陸海軍の改革と殖産興業が進展すると、差し迫った脅威が消えて、逆に段階的な領土拡大が可能になった、第一段階は、1869年の北海道併合だ。もともと日本人とは違う先住民族のアイヌ人が住んでいて幕府による部分的な支配を受けていたこの北の島を、正式に日本の領土としたのである。つづいて、台湾に漂着した宮古島の島民が台湾原住民によって何十人も殺されるという事件が起き、1874年には台湾に日本から征伐軍が派遣された。最終的に日本は軍を撤退させ、このときは台湾併合にはいたらなかった。1879年、今度は琉球王国が日本に併合された。そして1894年から95年にかけて日清戦争を戦った日本はこれに勝利し、下関条約で台湾を併合した。これが明治日本の最初の対外戦争だった。
明治日本が最初に西洋列強相手に軍事力を試したのは、日露戦争(1904~05年)だった。日本の海軍と陸軍はそれぞれロシア軍を破った(口絵3・7・、3・8)。これは世界史上の画期的な出来事だった。西洋列強が総力戦で初めてアジアの国に負けたのである。戦後結ばれたポーツマス条約によって、日本はサハリン島の南半分を併合し、南満州鉄道の権利を獲得した。朝鮮半島では、1905年に大韓帝国を保護国化し、1910年には併合している。1914年、日本は中国の膠州湾にあったドイツの租借地を占領し、ドイツ領ミクロネシアを手に入れた(口絵3・9)。そして1919年にはついに、日本は中国に対し対華21箇条要求を突きつけた。
この要求がすべて通れば中国は事実上日本の属国となっていただろう。だが、中国は要求を一部しか呑まなかった。
1894年以前から、日本はすでに中国や韓国に攻め込むことを考えていた。実行しなかった理由は、軍事力がまだ十分ではないと日本が考えていたことと、西洋列強に介入の口実を与えてしまうことを恐れていたことが挙げられる。明治日本が自身の戦力を過大評価して判断を誤ったのは、日清戦争末期の1895年の一度きりだ。日本が当時の清国から引き出した譲歩には、遼東半島の割譲も含まれていた。中国大陸と朝鮮半島を結ぶ陸路と水路の要衝だ。だがフランス、ロシア、ドイツの三国干渉によって、日本は遼東半島を手放さざるを得なかった。ちなみにロシアはその3年後、旅順を租借地としている。この屈辱的な失敗によって、日本は、西洋列強に単独で対抗するにはまだ力不足であることを認識した。そこで1902年に、日本はイギリスと日英同盟を結んだ。こうして後ろ盾と保険を用意してから、1904年にロシアとの戦争に臨んだのである。また対華21箇条要求も、第一次世界大戦がはじまって西洋列強が軍隊を自由に動かせなくなるのを待ってから突きつけた。日英同盟で安全は担保されていたものの、1895年の三国干渉のような介入を西洋列強ができないようにするためだった。
明治日本の軍備増強と領土拡大は、成功に次ぐ成功をおさめた、それは、現実的かつ注意深く、確度の高い情報にもとづいて公正な自国評価がおこなわれ、日本と対象国との相対的な国力差を見極めていたからだ。日本は現実的に何が出来るのかを正しく判断しながら、少しずつ慎重に行動していた。この成功した明治時代の拡大政策を、1945年8月14日の状況と比較してみよう。このとき日本は、中国、アメリカ、イギリス、ロシア、オーストラリア、ニュージーランドと同時に戦線を構えていた(他にも対日宣戦布告をしていた国は多数あったが、実際に戦争をしていたののはこの6カ国だけだ)。対戦相手としては最悪の組み合わせだ。日本陸軍の大部分は、もう何年も前から中国で膠着状態に陥っていた。アメリカの爆撃機は、日本のほとんどの大都市を燃やし尽くしていた。ふたつの原子爆弾は、広島と長崎を潰滅させていた。米英艦隊は、日本の本土沿岸部に艦砲射撃を浴びせていた。ロシア軍は、弱弱しい日本の抵抗を蹴散らして満州とサハリンに進撃した。オーストラリアとニュージーランドの部隊は、太平洋上の島々に点在した日本軍の駐屯地を掃討していた。日本の大型戦艦と商船団はほぼすべて撃沈されたか、航行不能状態だった。すでに300万人以上の日本人が殺されていた。
これらの国から同時に攻撃される原因が外交政策の失敗だったとしても、充分ひどい話なのだが、日本が犯した重大な失敗はもっとひどかった。日本のほうからこれらの国に戦争をしかけていったのだ。1937年、日本は中国と全面戦争に入った。1938年と39年には二度にわたってソ連と国境で戦った(張鼓峰とノモンハン)。ふたつとも戦闘期間は短かったが、死傷者が多数出た悲惨な戦いだった。1941年には、ソ連との戦いがまた起こる可能性があったにもかかわらず、日本は英米蘭を同時に奇襲する。イギリスに攻撃をしかけるということは、イギリス統治領のオーストラリアとニュージーランドを戦争に巻き込むことを意味した。日本はオーストラリアへの爆撃もはじめた。1945年、とうとうソ連も対日戦争に参戦した。1945年8月15日、遅きに失した感はあるものの、日本はついに不可避の帰結に屈服した。降伏したのだ。1868年以降の明治日本は、現実的な軍備増強と領土拡大を段階的かつ着実に成功させていった。だが、なぜ1937年以降の日本は、非現実的かつ最終的には失敗に終わる領土拡大を、一歩ずつ間違った方向に進んでいったのだろうか?
理由は多数ある。日露戦争の成功、ヴェルサイユ条約への失望、1929年の世界恐慌を発端として輸出主導型で経済を成長させるもくろみが増えたことなどだ。しかし、本書のテーマと非常に関連の深い理由をもうひとつ挙げよう。明治日本の指導者と、1930年代、40年代の日本の指導者では、公正な自国評価を行うための知識や能力に違いがあったのである。明治時代には、軍幹部を含む多くの日本の指導者が海外に派遣された経験があった。そうして中国やアメリカ、ドイツ、ロシアの現状や陸海軍の実力を詳細に直接知ることができ、日本と各国の国力差を公正に評価できた。彼らの成功を確信した場合にだけ、攻撃をしかけた。対照的だったのは1930年代に中国大陸に展開していた日本陸軍だ。大陸の将校たちは若く急進的だったし、海外経験もなかった(ナチスドイツを除いて)。そして、東京の大本営にいた経験ある指導者層の命令を聞き入れなかった。若き急進派将校たちは、アメリカの工業力や軍事力を直接見聞きしたことがなかったし、日本の潜在的敵国についても無知だった、アメリカ人の国民心理も理解できず、アメリカというのは厭戦思想の蔓延する商人の国だと考えていた。
1930年代でも、政治家や軍幹部(とくに海軍)の長老の多くは、欧米の力を直接見聞きした経験があった。私が日本で経験した、非常に強く印象に残っている話をしよう。初めて日本を訪れた1998年のこと、日本の製鉄会社の元重役だった90代のご老人と一緒に夕食を囲む機会があった。彼は1930年代にアメリカの製鉄所を視察したときのことを私に話してくれた。アメリカの製鉄所の高級鋼生産能力が日本の50倍であることを知り、彼は衝撃を受けたそうだ。その事実ひとつだけで、対米開戦が狂気の沙汰であることを確信したという。
だが、1930年代の日本では、海外経験のある長老級の指導者たちが、海外経験のない若い急進派に恫喝され、威圧され、何人かは暗殺された。幕末期の1850年代末から60年代にかけて過激な志士たちが当時の日本の指導者たちを恫喝したり暗殺したりしたのとそっくりだ。志士たちも1930年代の青年将校たち同様、外国の強さを直接的には知らなかった。違ったのは、志士が西洋人を襲ったことにより、西洋の強力な軍艦が鹿児島の城下町や馬関海峡の両岸を砲撃したことだった。これにより、志士たちですら、自分たちの戦略は非現実的だと納得させられた。だが1930年代には、海外に行ったこともない若い将校たちに現実をたたき込む外国による砲撃はなかったのだ。
さらに、明治の日本人指導者と、1930年代の指導者たちが経験した歴史が正反対であったこともある。明治の指導者たちが成長したのは、弱い日本、いつか強力な敵国が現れ攻撃されるかわからない状態の日本だった。だが1930年代の日本の指導者にとって戦争といえば、痛快な勝利をおさめた日露戦争だった。旅順港のロシア太平洋艦隊を壊滅させた奇襲攻撃や、対馬沖でバルチック艦隊を完膚なきまでにたたきつぶした日本海海戦を思い浮かべるのだ。旅順港の奇襲攻撃は、真珠湾でアメリカの艦隊にしかけた奇襲攻撃のモデルとなった(口絵3・7)。このように一国のなかで世代によって経験した歴史が異なるためにまったく異質な政治観を持つことになった例は、第6章のドイツでもみられる。
そういうわけで、勝算が絶望的にないにもかかわらず日本が第二次世界大戦をはじめた理由の一部(あくまで一部)は、1930年代の若い軍幹部に現実的かつ慎重で公正な自国評価をおこなうのに必要な知識と経験が欠けていたことだ。そしてそれが日本に破滅的な結末をもたらしたのである。
日本経済新聞出版社刊 ジャレド・ダイアモンド著 小川敏子、川上純子訳「危機と人類」上巻
ISBN-10: 4532176794ISBN-13: 978-4532176792
0 件のコメント:
コメントを投稿