株式会社草思社刊 ジャレド・ダイアモンド 著 倉骨 彰 訳
「銃・病原菌・鉄」上巻pp.367-373
ISBN-10: 9784794218780
ISBN-13: 978-4794218780
『病原菌の視点で感染症を分析するのはこれくらいにして、人間の側に立って感染症にかからないためにはどうしたらいいかを考えると、いまいましい奴らは全部やっつけてしまえ、というのが結論である。たとえば、この目的を実現するために、人間の身体は病気にかかると発熱する。われわれは、発熱をたんなる「病気の症状」と考えがちであるが、人間の体温調節には遺伝子が関与しており、偶然に上がったり下がったりするものではない。病原菌によっては、人間の身体よりも熱に弱いものがある。われわれの体は、体温を上げることで、自分たちが病原菌によってやられる前に侵入した菌を焼き殺そうとするのである。
感染に対する人間の体のもうひとつの反応は、免疫システムの動員である。人間の体では、白血球などの細胞が侵入した菌を探し出して殺そうとする。いったん感染症にかかると、その病原菌に対する抗体が体内に出来て、同じ感染症に再度かかりにくくなる。しかし病原菌の種類によっては、抗体が長続きしない。誰もが知っているとおり、インフルエンザや風邪に対する抵抗力は一時的なもので、人は何度もインフルエンザにかかったり風をひいたりする。その逆に、麻疹、風疹、百日咳、天然痘などについては、一度感染して抗体が出来てしまうと、終生免疫が体内にでき、そうした病気には二度とかからなくなる。ワクチンはこの原理を逆手に取ったものである。死んだり弱められた病原菌株をわれわれの体に接種して、実際に病気になることなく、その病気に対する抗体(免疫)をつくらせるのである。
ところが、病原菌によっては、われわれの体の免疫防御をもってしても侵入をふせぐことができないものがある。そうした病原菌は、人間の抗体が認識する抗原と呼ばれる部分を変化させ、人間の免疫システムをだますのである。インフルエンザがしょっちゅうはやるのは、抗体の部分がちがう新種のインフルエンザウィルスが登場し続けているせいである。したがって、2年前にインフルエンザにかかった人も、今年のウィルスが新種であれば、そのウィルスに対する抗体を持っていない。マラリアや睡眠病も、素早く抗原部分を変化させる能力においては、インフルエンザウィルスの上をいくが、もっともやっかいなのがエイズウィルスである。このウィルスは、感染者の体内で増殖しながら抗原部分を変化させることでつぎつぎと変身し、患者の免疫システムを無力化させて、やがて死においやってしまうのだ。
世代が代わるときにわれわれの遺伝子を変化させる自然選択も、病原菌に対する防御メカニズムの一つであるが、これは作用するまでもっとも時間がかかる。たとえば、どの病気であろうと、他の人びとにくらべて遺伝的に強い抵抗力を持っている人がいる。疫病が大流行したときでも、その病原菌に対する遺伝子を持っている人びとは、持っていない人びとより生き残れる可能性が高い。ということは、歴史上、同じ病原菌に繰り返しさらされてきた民族は、その病原菌に対する抵抗力を持った人びとの割合が高いーそうした遺伝子を持たなかった不運な人びとの多くは、死んでしまって(自然淘汰されてしまって)、子孫を残せなかったからである。
この自然淘汰による防御メカニズムは、遺伝的に抵抗力が弱い人には何の役にも立たないものの、人間の集団全体の抵抗力を遺伝的に強化している。鎌型赤血球貧血症遺伝子、テイ・サックス(黒内障家族性白痴)遺伝子、そして嚢包性線維症遺伝子などは、人間集団全体の抵抗力を強化している遺伝子の例である。これらの遺伝子は、相当の犠牲者をはらったうえで、アフリカ大陸の黒人、アシュケナージ系ユダヤ人(ドイツ・ロシア・ポーランド系ユダヤ人)、そして北ヨーロッパ人に防御メカニズムをあたえている。アフリカ大陸の黒人は鎌型赤血球貧血症遺伝子のおかげで、マラリアに対する抵抗力がある。
また、テイ・サックス遺伝子および嚢包性線維症遺伝子のおかげで、アシュケナージ系ユダヤ人と北ヨーロッパ人は、それぞれ結核と、細菌性下痢に対する対抗力がある。
もちろん、人間と他の生物との接触は、通常、人間を病気にするものではない。これは、人間とハチドリの交流を見ればわかる。この交流は、人間を病気にするものでなければ、ハチドリを病気にするものでもない。この平和な関係が続いているのは、ハチドリが、人間の身体を食用にしたり、子孫を増やすのに人間をあてにしたりせずに、花蜜や昆虫を食べて生きるように進化しているからである。その結果、人間はハチドリから身を守るようにする必要はなかった。そして、ハチドリのほうも、人間から身を守るように進化する必要がなかった。
しかし病原菌は、人間の体内の栄養素を摂取する生物として進化してきた。しかも、もとの犠牲者が死んだり抵抗力をつけてしまったとき、新たな犠牲者をもとめて飛んでいく羽根を持っていない。病原菌の多くが、さまざまな伝播方法を進化させてきたのはそのためである。病気になったときに現れる症状の多くは、人間の体を媒介にして自分を伝播させるために病原菌が編み出した策略である。もちろん人間の側も、病原菌の策略に対抗する策略を進化させてきた。そしてこのイタチごっこに終わりはない。負けた側には、死が待っている。戦いの全てを判断するのは、自然淘汰という名の審判である。この戦いは、電撃戦なのだろうか。それともゲリラ戦なのだろうか。
【流行病とその周期】
特定の地域を選択して、そこで発生する感染症の種類と数が時系列的にどのように変化するかを観察してみると、病気の種類によって発生パターンがかなり異なることがわかる。たとえば、マラリアや鉤虫病などは、発生時期がばらばらで、いつでも新しい症状が現れるパターンを示す。しかし、疫病の場合は、たくさんの発症例があったあと、まったく発症が見られない時期がしばらくつづき、そのあとでふたたびたくさんの発症例が見られる、という波状的なパターンを示す。
そうした病気の中で、われわれがいちばんよく知っているのはインフルエンザである。インフルエンザは、ひどい年には大々的に流行する(それはインフルエンザウィルスにとっては、とても良い年である)。コレラは、つぎに流行するまでの間隔がもっとも長くて、20世紀のアメリカ大陸では、1991年に南米のペルーであったのが最初の流行だった。今日でもインフルエンザやコレラの流行は新聞の第一面を飾る。そしてこれらの病気は、近代医学が登場するまでは心底恐れられていた。人類史上、もっとも猛威をふるった疫病は、第一次世界大戦が終結した頃に起こったインフルエンザの大流行で、そのときに世界で2000万人が命を落としている。1346年から52年にかけて流行した黒死病(腺ペスト)では、当時のヨーロッパの全人口の四分の一が失われ、死亡率70パーセントという都市もあった。1880年、カナダの太平洋鉄道がサスカチェワン地域を貫いて建設されたときには、それまで白人や白人の持つ細菌にさらされることがほとんどなかったサスカチェワン地域のアメリカ先住民の人口のじつに9パーセントが、毎年、結核の犠牲となって死んでいった。
ぽつりぽつりと患者が現れるのではなく、突然大流行する感染症には、共通する特徴がいくつかある。まず、感染が非常に効率的で速いため、短期間のうちに、集団全体が病原菌にさらされてしまう。つぎに、これらの感染症は「進行が急性」であるー感染者は、短期間のうちに、死亡してしまうか、完全に回復してしまうかのどちらかである。そして、一度感染し、回復した者はその病原菌に対して抗体を持つようになり、それ以降のかなり長きにわたって、おそらく死ぬまで、同じ病気にかからなくなる。最後に、こうした感染症を引き起こす病原菌は、人間の体の中でしか生きられないようで、地中や動物の体内で生存していくことができない。麻疹(はしか)、風疹、おたふく風邪、百日咳、天然痘は、子供のかかる病気としてよく知られているが、これらの伝染病も前記の四つの特徴を備えている。
これらの特徴がどのように組み合わさって病気は流行するのだろうか。この疑問に答えるのはそれほどむずかしくない。簡単に説明してしまえば、急速に広がり、症状が急速に進む病気は、集団全体にたちどころに蔓延する。そして感染者は、短期間のうちに死んでしまうか、回復して抗体を持つようになるかのいずれかで、感染したままいつまでも生き続けることはない。そして、感染者の減少とともに、人間の生体内中でしか生きられない病原菌も、そのうち死滅してしまい、それとともに大流行も収束してしまう。つぎの大流行は、抗体を持たない新生児がかかりやすい年齢に達し、集団外部から新たな感染者が訪れるまでは起こらないのである。』
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