2016年9月22日木曜日

20160922 宙ぶらりん、保留・・疑問と葛藤そして創造について

A「これまでに投稿した記事は420を越え、また430にも近づいてきましたが、日常生活において特に大きな変化などは生じておりません・・。

それは、当たり前といえば当たり前ではあるのかもしれませんが、一方、これら記事を閲覧してくださっている方々がおられ、また昨日の記事に対してもそうであったのですが、投稿した記事に対して(時折かなり)興味深い反応が為されているのを見ますと、これまでの閲覧者数が国内外を合わせ15万人程度に到達したことにより、何かしらの出来事が生じても良いのではないかとも思われるのです・・(笑)。

いや、しかし、そうしたものは決して良いことばかりであるとも云えませんので、実際こうした静けさの方がブログ記事作成の継続においては望ましいのかもしれません・・。

とはいえ、それ以前に私に関しては、こうしたことに対し経験によって自身が定める「判断の基準」というものを未だに持っていないため、その良し悪しの判断とは、未だ保留、宙ぶらりん、棚上げ状態にしておこうと思います・・(笑)。
そして、そういったはっきりしない、煮え切らない状態とは、大抵の場合、どちらかといえば不愉快なものではないかと思われます・・。

しかしながら、実はそうした内面における解決出来ない疑問、あるいは葛藤といったものを飽くことなく、腐らせることなく平静のうちに問い続けることもまた、成熟というものの一つの要素ではないかとも思われます・・(・・果たして本当であろうか・・?)。

無論、様々な成熟の仕方があるとも思いますが・・。

ともあれ、こうした能動的ともいえる疑問、葛藤を持ち続ける姿勢から哲学そして様々な科学などが生まれ、発展していったのではないかとも思われます・・。

また、これは多くの科学者が述べられている「基礎科学が大事である。」ということの背景思想にも親和性を持つのではないかと思われます・・。

しかしながら、現在の我が国においては、表向きの評価はともかくも、日常我々が接するところの創造的な事物とは、貨幣を生むに都合の良さそうな既存フォームの表層を多少変形させたものをに対し、何かしら大げさなコトバをもって装飾しているものが多いのではないかと考えさせられるのです・・。

そして、こうしたことは社会における根源的な創造的な力(活力)が枯渇してきた時に多く見受けられる現象ではないかと私は思います・・

私見としては、あまりカッコが良くなくとも、参考としたものは参考したものとしてその出典を明示し、そして、そこから先の自らの創造を為したと考える部分を提示するに留めた方が、健全であり、また未来における創造にも繋がるのではないかと思われるのです・・文章であれ芸術作品であれ。

また、これは、実際に自身がこれまでのブログ記事の作成を通じて、いみじくも痛感したことでもあります・・。

さて、ここまで記していて何故か不図思い起こしましたが、先日書店にて映画化もされた中上健次著「千年の愉楽」を立ち読みしましたが、ああした文体もまた人を引きつける何かがあり「実のところ、こちらの文体の方が本来の伝統に沿った日本語の用い方なのではなかろうか・・?」とも思われました。
この著作、映画をご存じない方は、好き嫌いが分かれるかもしれませんが、映画と共に是非一度観る、読んでみては如何でしょうか?

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

さる四月に熊本にて発生した大地震によって被災された地域における諸インフラの出来るだけ早期の復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」



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