2024年8月11日日曜日

20240810 河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ:著 柴田 裕之:訳「ホモ・デウス」下巻  pp.74-76より抜粋

河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ:著 柴田 裕之:訳「ホモ・デウス」下巻 
pp.74-76より抜粋
ISBN-10 : 4309227376
ISBN-13 : 978-4309227375

 ジャーナリストのマーク・ボウデンは、ベストセラーになった著書「ブラックホーク・ダウン」の中で、ソマリアのモガディシュにおけるアメリカ兵ショーン・ネルソンの一九九三年の戦闘経験を同じような言葉で描いている。

 そのときの気持ちを説明することは難しかった…物事の本質が突然明らかになる瞬間に似ていた。死の瀬戸際にあって、かつてないほどの生命感を覚えていた。死が自分をかすめるように過ぎていったと感じた瞬間は、それまでの人生にもあった。疾走してきて急カーブが曲がり切れなかった車が、やはり飛ばしていたいたこちらの車と、間一髪で正面衝突を免れたときのように。この日彼はあのときの気持ちで、死が自分の顔にまともに息を吹きかけてくるのを感じながら生きていた…一瞬一瞬、三時間以上にわたって…戦闘は…完璧な精神的・肉体的自覚の状態だった。路上にいたその間、彼はショーン・ネルソンではなかった。外の世界とは何の結びつきもなく、支払わなければならない請求書もなければ、感情のつながりもない。何もなかった。このナノ秒から次のナノ秒へと命をつなぎ、一息ずつ呼吸を繰りかえし、そのどれもが最後になるかもしれないことを完全に自覚している一人の人間にすぎなかった。もうけっしてそれまでの自分ではいられなくなると感じた。

 アドルフ・ヒトラーも、自分の戦争体験で変わり、目を開かれた。「わが闘争」の中で語っているように、彼の部隊が前線に到着して間もなく、兵士たちの当初の熱狂が恐れに変わり、めいめいがあらゆる神経を張り詰めさせ、圧倒されまいとして、その恐れに対して激しい内なる戦争をしなければならなかった。ヒトラーは、一九一五年から翌年にかけての冬にこの内なる戦争に勝ったと言っている。「ついに私の意志が明白な主人となった…今や私は落ち着き払い、決然としていた。そして、それは永続的なものだった。今や運命が究極の試練をもたらそうとも、神経をずたずたにされることはないし、分別を失うこともありえなかった」

 戦争の経験はヒトラーにこの世界についての真実を暴いて見せた。そこは自然選択の無慈悲な法則が心配するジャングルなのだ。この真実を認めるのを拒む者は生き残れない。成功したければ、このジャングルの法則を理解するだけでなく、それを喜んで受け容れなければならない。これは強調するべきだが、戦争に反対する自由主義の芸術家たちとまさに同じで、ヒトラーも平凡な兵士たちの経験を神聖視した。それどころか、ヒトラーの政治面での経歴は、二〇世紀の政治で一般大衆の個人的経験に与えられた莫大な権威の有数の例になっている。ヒトラーは高級将校ではなく、四年間の戦争中、階級は兵長止まりだった。彼は正式な教育を受けておらず、専門的技能も持たず、政治的背景もなかった。羽振りが良い実業家でも、労働組合の活動家でもなく、有力な友人や親族もおらず、たいしたお金も持っていなかった。初めはドイツ国政さえなかった。彼は無一文の移民だったのだ。

 ドイツの有権者に訴えて信頼を求めるとき、ヒトラーには頼みの綱はたった一つしかなかった。大学や総司令部や省庁ではけっして学べないことを塹壕での経験で学んだという主張だ。人々が彼を支持し、票を入れたのは、その姿に自分自身を重ねたからであり、彼らもまた、この世界はジャングルだ、私の命を奪わないものは私をより強くする、と信じていたからだ。

 自由主義がもっと穏やかな国家主義のバージョンと一体化して個々の人間のコミュニティの唯一無二の経験を守ろうとしたのに対して、ヒトラーのような進化論的な人間至上主義者は、特定の国々が人間の進歩の原動力であると考え、それらの国々は誰であれ行く手を遮る者を打ち倒し、根絶しさえするべきであると結論した。とはいえ、ヒトラーとナチスは進化論的な人間至上主義の極端なバージョンの一典型にすぎないことは、忘れてはならない。スターリンが強制労働収容所を造ったからといって、社会主義の考え方や主張がすべて自動的に無効になりはしないのとちょうど同じで、ナチズムが惨事を引き起こしたからといって、何であれ進化論的な人間至上主義が提供してくれる見識を私たちが見逃すことがあってはならない。ナチズムは、進化論的な人間至上主義と特定の人種理論や超国家主義的感情が組み合わさって生まれた。進化論的な人間至上主義者がみな人種差別をするわけではないし、人類はさらに進化する可能性があると信じている人がみな、必ずしも警察国家や強制収容所の設立を求めるわけでもない。

 アウシュヴィッツは、人間性の一部をそっくり隠すための黒いカーテンの役割ではなく、血のように赤い警告標識の役割を果たすべきだろう。進化論的な人間至上主義は近代以降の文化の形成で重要な役割を演じたし、二一世紀を形作る上で、なおさら大きな役割を果たす可能性が高い。

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