2022年1月31日月曜日

20220131【架空の話】・其の82 【モザイクのピースとなるもの】【東京訪問篇②】

医専大口腔保健工学科でのデジタル歯科全般に精しい実務家教員の選定下準備として、E先生と私が東京方面に出向くこととなり、私はE先生よりも1日早くKを発ち、S教授が以前勤務されていた**歯科大学にてさまざまな実験条件についての実地打合せ等を行った。

その翌日は、9:00にE先生と駅前で待ち合わせて、D先生の医院に訪問の予定となっていた。その近所に実家がある私としては時間的に多少余裕があったものの、同時にE先生が宿泊されていた千葉県のI市からは1時間ほどは要したのではないかと思われる。

E先生の方も、待ち合わせをした駅前にて「学生時代から部活の試合以外で、東京のこっちに来ることはなかったからなあ・・。」と周囲の景色を眺めながら仰っていた。そして、その片手には鹿児島名物「かるかん」で有名な「蒸*屋」の黒い手提げ紙袋をいくつか持たれていた。

そこで、とりあえず駅前のにあった喫茶店*トールに入り一息入れて、そして、本日の段取りについての打合せを行うことにした。本日で何人の先生方にお目に掛かることが出来るか分からないため、E先生は、とりあえず「かるかん」を三袋持ってこられたとのことであった。

打合せ後、私のスマートフォンにてD先生に事前のご連絡のため電話をかけると「ああ、今から来ても大丈夫だよ。」とのことであり、予定時刻より少し早かったが訪問させて頂いた。

久しぶりにお目に掛かったD先生は、多少白髪が多くはなっていた様子はあるものの、学術研究経験がある歯科医師にありがちな、少し慎重な鷹揚さや、その物腰には変わりがなくお元気そうであった。

E先生はD先生に初対面のあいさつをされ、喫茶店からは私が持っていた「かるかん」の一つを受け取り、D先生に差し出しつつ「こちらはK医専大のH・Mの両先生からでして「今回もどうぞよろしくお願いいたします。」とのことでした。」と述べた。それに対してD先生は少し背筋を伸ばしてから「・・ああ、大体の経緯は少し前に医専大の先生方から問合せがあったから、自分なりに調べて、いくつか候補を挙げてみて、こちらから行ける程度には、それぞれハナシをつけてはいますけれど・・。」といった流れになり、直ぐに本題へ入ることになった。

D先生が、デジタル歯科に精しく、また臨床活動も活発な首都圏の開業歯科医師として示された方々およびその医院は、こちらKでは聞いたことがなく、まだ若手とも云える年齢の先生方ばかりであり、その中で一件、口腔保健工学科関係者として大変興味深いと思われたのは、歯科医院としてはかなり規模が大きく、また、セラミックによる補綴装置を焼成するための高性能電気炉やCAD/CAM装置、医療用途の3‐Dプリンター、さらには、小型ながらも走査型電子顕微鏡といった分析機器までもが設置機器項目に記されていた歯科医院であった・・。

やがて、頂いた候補医院の情報を黙って読まれていたE先生も、私が興味を持ったさきの医院と同じ医院の資料を示しながら「D先生、すいません。こちらの医院はどういう感じなのですか、資料を拝読してみますと、既にいくつかの歯科大学、歯学部や口腔保健学科そして歯科衛生専門学校などの臨床研修施設とのことですが・・。」と訊ねられた。

D先生はその質問を予期していたかのよう、少し肩をすぼめてから「う~ん、やはり、その歯科医院に注目しますか・・。たしかに口腔保健工学科からしますと、ここの技工設備はかなり魅力的かもしれませんからね・・。そう、これだけの技工設備があって、且つ、作製された歯科補綴装置の技工作業から試適に至るまでの全臨床過程を見ることが出来る医院はあまりありませんからね・・。それと、こちらの医院で勤務している何人かの歯科衛生士さんは、御茶ノ水~飯田橋界隈にある大学にて社会人大学院生として研究活動を続けているとのことで、さらに歯科技工士も、お茶の水にあるIKSK大学の口腔保健工学科を卒業された方が、何年か続けてここに就職したと聞いていますから、何と云うか、若者らしく最先端の歯科医療技術に触れてみたくて、且つ、さらなる大学での研究の途も選択することが出来るような歯科医院は、やはり、それなりに魅力的であるのだと思います・・。そういえば、かれこれ5年間ウチで勤務して頂いている貴学OGの歯科衛生士であるCさんも、現在はパート・タイムですが、ここの医院の訪問歯科診療部門で働いていますよ。彼女はウチで働きながらN歯科大学でマスター(修士号)を取得されて、しばらく経ってから、ここで開催された摂食嚥下機能のリハビリテーション勉強会に参加して興味を持ったとのことです・・。ともあれ、こちらの院長は、私からの紹介状を持参して行けば、多分会って話しを聞いてもらえるとは思います・・。」とのことであり、そこで我々は、その場でD先生に紹介状の作成を依頼した。紹介状とは云っても、それはD先生の名刺裏の余白部分に「彼らはK医療専門職大学口腔保健工学科の方々です。この度**先生の医院を見学されたいとの要望から当紹介状を認めています。つきましては、ご多忙のところ恐縮ではありますが、ご対応のほど、どうぞよろしくお願いいたします。」と書かれたものであったが、それを持参して、はじめの一件目として訪問させて頂くことにした。

今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

順天堂大学保健医療学部

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ISBN978-4-263-46420-5

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2022年1月29日土曜日

20220129 1700記事の到達、スマートフォンとツイッターの運用による影響について・・

今回の記事投稿によって、総投稿記事数が当面の目標としていた1700記事に到達します。そうしますと、これまでの約6.5年の期間で1700記事を投稿してきたことになり、これを異言しますと、その間、10日のうち7日は新規記事の投稿をしてきたことになります。また、ブログを始めた当初は、この程度まで続くとは考えていませんでしたので、そうした自覚や実感は皆無ではありますが、私としては、それなりに身を入れて続けてきた方であるとは云えます。

そして、今後はしばらくの期間、新規でのブログ記事作成をせずに休みたいと考えています。また、2020年の1月から始めたツイッターと当ブログの連携は、これまでのところ、どうにか継続しており、さらにツイッター上から新規の興味深いと思しき、さまざまな情報に接することは、現在の私にとっては一つの重要な情報入手手段になっていると云えます。

ツイッターにて接した情報に基づき購入する書籍を検討することも度々あり、そしてまた、そうした過程を経て購入した書籍と、これまで通りのアナログ的とも云える書店内を徘徊、立ち読みして見つけたものとでは、どちらが「より良い」のかについて、現在の見解としては「しばらく、その判断は保留し且つ、あまり意識せずに双方続けてみよう。」といったところになります・・。

ただ、同時にここで強く思い出されたことは、書店内にてスマートフォンを用いて面白そうな書籍を検索することは、少しの例外はあるかもしれませんが、概ね、書籍に対しての身体性に基づいた価値判断を鈍らせるのではないかということです。

端的には、書籍を選ぶ現場にてスマートフォンを用いることにより、そこで本来生じる創造性にも関与する何らかの精神活動が阻害されるのではないかと私は考えます。

あるいは、元来PCを用いて作成し、主にブロガーにて投稿してきた当ブログが、ここ2年間でスマートフォンを用いてツイッターと連携するようになったことから、その作成の基盤にある環境が変化し、それに対応しつつ当ブログを続けるのに少し疲れたというのが1700記事到達の際の一つの思いであるとも云えます。

それ故、さきに述べました通り、しばらくはオリジナルの記事作成については、今後自然に「新規のブログ記事を作成したい」と望むようになるまでは、控えて休みたいと思います。

他方で、書籍からの引用記事の作成に関しては、今後も続けていきたいと考えており、あるいは1700~1800記事は、概ね引用記事にて充ててみることは、以前にも検討したことがありましたが、現在においても、それなりに面白い試みであるように思われます。

より具体的には、そうした引用記事とオリジナル記事の割合を(適当ではありますが)4:1程度にて1700記事から100記事程度作成するといったことですが、そこから、当ブログおよび自分に、どのような変化が生じるのかということは、自分としては未知の領域であり、興味深く思われるところです・・。

とはいえ、いずれにしましても今後数日間は、ブログ記事の作成を休もうと思います。また、これは比喩的な表現ですが、何だか自分が空っぽになったような感覚(本当はそうではないのですが)があります・・。

そして、今年の本格的な夏が来るまでには、あるいは少し厳しく見積もり、当ブログ開始から丸7年となる6月22日までに出来れば次の目標である1800記事に到達出来ればと考えています。また、今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
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2022年1月27日木曜日

20220127 岩波書店刊 宮地正人著「幕末維新変革史」上巻 pp.48-52より抜粋

岩波書店刊 宮地正人著「幕末維新変革史」上巻
pp.48-52より抜粋
ISBN-10 : 4006003919
ISBN-13 : 978-4006003913

著者は現在のところ。19世紀初めからの欧米キリスト教列強の世界進出は、一つの世界的システムを形成しながら遂行されたととらえており、それを「不平等条約世界体制」と呼ぶことにしている。

 この世界体制はフランス革命、ナポレオン戦争、イギリスを原動力とする産業革命の複雑な絡み合いの中から成立し、資本主義的大量生産商品の販路を全世界に求め拡大する資本(ただし金融資本は未成立の段階)の欲求の中から成立していった。進出する欧米キリスト教世界では、対等・平等な主権国家間の国際関係がつくられていたとはいえ、ロシアのツァーリ専制国家にしろ、プロイセン王国、オーストリア・ハンガリー帝国にしろ、今日我々が国民国家という名称で安易に、一括してイメージするには相当異質な諸国家も含みこんだ複雑な国際関係がそこには存在していたのである。

 この欧米キリスト教列強が非キリスト教世界に外交と軍事を武器に進出し、商品の販売と資本の投資、現地生産物の安価購入を可能にするためには、非キリスト教世界に適用されるべき国際的な法体制がつくりあげられなければならなかった。

 その第一が治外法権である。欧米主権国家が自国民支配の法的枠組みを、非キリスト教国家の内部にそのままそっくり持ち込むことであり、持ち込まれた場、すなわち居留地においては非キリスト教国家の国家主権が否定される。当然、領事裁判権が行使されるとともに、この居留地を根拠地として、外国人商人の内地自由旅行権と内地での商業活動の自由、キリスト教内地布教の権利等々が相手国にさらに次々と要求されていくのである。

 第二が協定低率関税である。主権国家においては関税を設け、その輸出入税額を決定することは、国家主権行為の最も重要な構成要素でありつづけた。しかし非キリスト教世界に対する商品市場の開放要求は、非常に多くの場合、軍事力か軍事力を背景とした外交交渉においてしか実現されえない。この際の通商条約締結時、関税率が双方の協議の中で決定され、特に敗戦の結果の通商条約においては低い関税率が押し付けられる。明白な国家主権の侵犯である。

 第三が片務的最恵国条款の挿入である。治外法権と協定関税を骨子とする条約締結の際、欧米諸国がこの条款を挿入することにより、相手国にその後認める特権条款を、自国側のなんらの譲歩もなしに自動的に自国に均霑させる権利を獲得することとなる。この条款は、非キリスト教世界に適用させられる時、きわめて強力な威力を発揮するのである。

 この不平等条約世界体制はキリスト教世界とイスラム世界の古くからの接触地オスマン帝国を起源としているカピチュレーション(capitulation)とよばれるものである。最盛期のオスマン帝国は17世紀にはウィーン攻略寸前の状況(1683年)をつくり出すほどの勢力を誇り、キリスト教地域であったバルカン地域をも帝国内に包み込み、帝国内のキリスト教徒を二等国民とし、正式の帝国臣民たるイスラム教徒と差別した支配体制をつくっていった。

 他方、西洋との交易をおこなう必要から、帝国内に来航し、商業を営む諸国との間に、カピチュレーションとよばれる協定を締結していった。フランスとは早くも1535年に結んでおり、オランダとは1680年に締結している。本来的にオスマン帝国側からの特恵的条約であり、いつでも帝国側から停止し廃棄可能なものとされていた。

 注意すべきことは、カピチュレーションの締結主体である。1675年にイギリスはこの条約を結ぶが、その主体はレヴァント会社という貿易会社なのである。同会社はインドでの東印度会社と同様、重商主義段階特有の特徴をもった独占会社であり、法的権限をイギリス王国から賦与され、オスマン帝国貿易に関する全権を保持し、紛争に備え各地・各港に領事を置き、貿易をおこなうすべての英国商船から税金を徴収する権限を有していた。

 オスマン帝国がレヴァント会社と結んだカピチュレーションは、①英国人同士の争いと事件には帝国は介入しない、②英国人と他のキリスト教国民との争いと事件は帝国法廷が裁く、③英国人と帝国臣民との争いと事件は帝国法廷が裁く、と述べ、その第42条に、②③の場合、英国公使あるいは領事はその裁判の場に出席し、審理を聞きともに決定する、としていた。ただし、英文では”They shall hear and decide it together"となっている箇所は、トルコ語テキストでは単に「イスチマ」(「聞く」の意味)となっていたため、両者間の力関係に応じて裁判のあり方は大きく変化する。とりわけ英国人がイスラム教徒のトルコ人殺害ないし重傷を負わせたケースは微妙となった。オスマン帝国の勢力が衰えてくると、イギリス側は訴訟手続き・証拠法・判決の量刑等すべてにわたって英国法システムに従っておこなわれない場合には反対を強く主張するようになってくる。

 イギリスにおいて産業革命が展開し、商業資本家が階級として成立する中で自由主義イデオロギーが確立していった。この思想は一方で自己認識として文明対未開、あるいは文明国対半開国(semi-civilized country)という他者・自者の対立関係軸を創り出すとともに、他方で自由貿易のための独占を廃止すべきだ、との主張を生み出していった。1825年、レヴァント会社は廃止され、オスマン帝国貿易の独占権が消滅し、同会社のカピチュレーションはイギリス王国はそのまま継承され、同時に同会社の領事システムは、イギリス外務省の在外官吏体系の中に編入されることとなった。

 ところで、この領事システムは欧米列強の進出に不可欠なものであったことは留意してよいことである。不断に発生する貿易上の紛争を裁き、在留邦人をはじめとする自国民の保護に当たる領事・総領事とその体制が創られる過程でこそ、商品の大量で安定した販売が実現されていく、商品の安価さだけで単一の資本主義世界市場が形成されたわけでは決してないのである。

2022年1月26日水曜日

20220125 1600記事から現在に至るまでの進捗から思ったこと

当記事を含めて、あと3記事の投稿により当面の目標としていた1700記事に到達します。また同時に、特に無理をすることなく、今月内での達成が可能であるとも思われます。しかしながら、こうした状況から気が緩んだのか、あるいは、季節によるものであるのか、ここ数日間は、あまり記事作成への意欲が湧いてきません。他方で、これまでの経験から、そうした状況においては、無理にでも記事作成を始めることにより、概ね解決できると知っているつもりでしたが、この「無理にでも記事作成を始める」がどうも困難に感じられるのが昨今の状況であると云えます。

とはいえ、そうしたこと自体を記事題材として作成してみますと、どうやらこの程度までは書き進めることが出来ていますので、やはり、さきの方法にて、こうした不調はある程度まで解決することが出来るのかもしれません・・。

そういえば、かつての1000記事到達以前は、上記のようなことをあまり考えずにブログ記事作成を(ほぼ)毎日のルーティンとしていましたが、そこから1000記事の到達、さらにまた700記事近く追加した状況になりますと、さきの初心、あるいはストイックさといった「心の構え」は変わってくると云えるのかもしれません・・。こうした、ある程度の期間にわたる「心の構え」の変容には、何か普遍的なモデルがあるのか不明ではありますが、それでもこれは、ここまで(どうにか)続けることが出来ていることから、さきの「変容」なども作成者からしますと、決して愉快なものではありませんが、実感として理解することが出来るのだと云えます。

現在の目標である1700記事の到達以前の目標であった1600記事は、去る2021年8月2日に到達していましたが、そこから、ほぼ6カ月、半年後に100記事追加したことになり、また概ね2日に1記事を投稿してきたことになりますので、さらに以前の1500記事から1600までの100記事は、概ね4カ月にて達成していましたので、その期間は大体6日のうち5日は新規投稿を行ってきたことになります。

そのように考えますと、やはり以前と比べますと、さきの「愉快ではない変容」をあらためて知らされることになります・・。そして、後日、1700記事に到達して、次に1800記事まで作成することを目標とするのであれば、それは、さきの6カ月、半年以上の期間を要することになるのでしょうか・・しかし、そうであれば、当ブログ開始丸7年となる今年の6月22日までの到達は困難になるものと思われます・・。

しかしながら、目前の1700記事まで(どうにか)到達することが出来ましたら、さすがにしばらくの期間、当ブログから離れて休みたいとと考えているのですが・・。さて、どうなるのでしょうか?

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

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2022年1月23日日曜日

20220122 親戚の師匠について思い出されたこと

これまでの投稿記事に何度か出てきました「当時、松山市在住であった親戚(故人)」は、私がホテル会社(三井観光開発株式会社)にいた頃より、勤務先であったそれぞれのホテルに宿泊して頂き、またその後、和歌山にて人文系の大学院生となった時も、関西方面にて開催された学会の際に和歌山まで足を延ばしてくださいました。

そして当時、私が住んでいたアパートにも来て頂き、室内のデスクおよび、その周辺に積まれた書籍を見て、いくつかを手に取り「いやあ、これは面白そうだね・・。」とか、積んであったいくつかの書籍の内容について質問をされましたが、その返答の様子から、いくらか納得されたのか、あるいは、この危なっかしい甥がどうやら、そこまで怠けることもなく書籍を読み、何やら考えている様を知り安心されたのか、修論のテーマなどについて、いくつかの質問をされた後「わかった。まあ首尾よくいくことを願っているよ。頑張りなさい。」と宣われ、そこからアパートを出立し、私の運転にて次の目的地である高野山に向かいました。

その後、無事に修士課程を修了し、実家に戻り、すぐに親戚宅に報告のために訪ねますと、ご自宅近くの飲み屋に連れて行ってくださり、お酒を飲みつつ「いやあ、本当に良かった。」と実家の家族よりも喜んでくださいました。この喜び様は、社交辞令的なものではなかったようであり、その後、何か機会がある際には度々自宅に呼んでくださるようになりました。

そして、そこから2年後の2009年、歯科技工専門学校を出て、鹿児島に移り住んでからは、先日投稿のブログ記事にて書きました柳川市にて開催された夏季勉強会後の松山訪問の際と、同年11月に兄が亡くなり、その葬式のために帰郷した際にお目に掛かってからは、しばらくお目に掛かる機会はありませんでした。しかし、電話やメールなどでは連絡を取り続け、とりわけ翌2010年に歯科理工学の師匠が退職されることになってからは、不安からか色々と連絡を取っていた記憶があります・・。

その後、この親戚と実際にお会いしたのは、2011年の2度めの松山市訪問の際であり、この時のことにつきましては、またあらためてブログ記事にしたいと考えていますが、そこから更に2年後、2013年9月に(どうにか)学位取得にまで至り、帰郷してからの報告の際には、2010年の出来事(歯科理工学の師匠の退職)の際に愚痴や不満などをぶつけたこともあってか、以前、2007年の修士課程修了の際よりもさらに喜んでくださり、少し泣かれていたと記憶しています・・。

また、2013年に帰郷してからは、市川市内にてアルバイトをしつつ、実家クリニックに隣接するアパートの部屋を利用したクリニックの書庫兼倉庫にて、しばらく暮らしていましたが、その頃、親戚宅のマンションの階下の部屋が丁度空き、また同時に親戚の体調が徐々に思わしくない方へ行っていたことから「何かあった時のために」と、私に階下の空いた部屋にしばらく住むことを提案され、そこからしばらくここに住まわせて頂きましたが、この時は、階下ということもあり、それまでで最も頻繁にお目に掛かる機会がありました。

それは、一緒に食事をとり、しばし雑談をするといったものでしたが、その時の会話は何故か印象的なものが多く、それらのうちのいくつかは、多少形を変え、当ブログ初期の対話形式の記事となっています・・。

また、不思議なもので、こうしたことをブログ記事として作成していますと、また他の記憶が想起されてきましたが、それらにつきましては、また後日、当記事を一つの材料、要素として作成してみたいと思います。

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2022年1月22日土曜日

20220121 ブログ記事作成時の新たな試みについて・・

当ブログ開始の頃から、概ね周囲の物音を静かにして記事作成を行ってきました。また、これまでに何度か、音楽をかけながらの作成を試みたことがありましたが、そうした環境下では、どうも上手く記事作成が進みません。そのため「記事作成時は、出来るだけ静かにしておいた方が良いのだろう。」と思うに至り、冒頭に述べた状況にて記事作成を行うのが通常となっています。

他方で先日、歯科理工学の師匠との会話にて「わしゃ、ラジオを聴きながら色々書いとるで、この「ながら」の方がええんや・・」と仰られたことから、気になり、また自分なりにこれを理解しようと試み、今回作成の記事では、背景にニュース解説動画の音声を流しています。

案の定、こうした環境下での記事作成は、不慣れであることから、その進み具合は、普段と比べいくらか遅いと云えますが、しかしながら、この程度まで進みますと、背景音声も当初と比べ、あまり気にならなくなるようであり「もうしばらく、これで作成し続けてみよう・・」と思うに至りました。

また他方で、以前に視聴した手塚治虫の日常や漫画作成過程を特集した番組の動画では、作成する漫画のテーマに合わせた音楽を流したり、放映されているテレビ番組を観ながら漫画作成を行っている様子が映されていましたが、これを観て「文章と漫画との違いはあるが、この様にして創作活動が出来ることはスゴイな・・」と思い、そして、これがさきに述べた師匠との会話の記憶に結節したと云えます。

そこから、このあたりまでどうにか作成していますと、背景の動画音声が終わりましたので「さて、次は何か音楽でも・・」と思い、そこで不図想起された昨日ツイッターにて投稿したモーリス・ラヴェルによる「ボレロ」を流してみることにしました。

さて、ここからの文章では作成する背景に「ボレロ」が流れてから既に4分ほど経過しています。

そのように考えてみますと、さきのニュース解説動画が30分ほどであり、また、現在流れている「ボレロ」は17.5分程の動画であることから、50分に至らずに、この程度までブログ記事を作成することが出来たことが明らかになりましたが、面白いことに、このことを認識した時には、冒頭の「静かな方が記事作成には良いのでは」は既に意識上になく、文章全体の整理のために冒頭文章を読んで気が付かされました。

そうしますと「記事作成時は静かな方が良い」はおそらく「当初の感覚にのみ」基づく感覚であると云え、背景音声によって、当初はあまり気が進まずとも、構わずに続けていますと案外と、この程度までは(どうにか)作成することが出来ることが分かりました・・。

今後、この作成方法が恒常的なものになるかは、未だ不明ではありますが、今しばらく、この体験を楽しんでみようと思います。

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2022年1月20日木曜日

20220120 岩波書店刊 岡義武著「近代日本の政治家」内「民衆政治家・大隈重信」pp.74-78より抜粋

 岩波書店刊 岡義武著「近代日本の政治家」内「民衆政治家・大隈重信」pp.74-78より抜粋

ISBN-10 : 4003812654
ISBN-13 : 978-4003812655

大隈は天保9年(1838年)2月佐賀に生まれた。その家格は上士であった。肥前藩の藩校・弘道館で経書を学び、のち藩の蘭学寮において蘭学を勉強し、その後長崎で英学を修めた。そして、これら洋学の勉学にあたっては、とりわけ大砲・築城など軍事方面のことに力を注いだ。

彼ははじめ尊攘思想を抱いていたが、蘭学の修行、長崎への往来、西洋兵制の勉強などの結果、開国論者になった。生来覇気にもえていた若き大隈は、めまぐるしい幕末動乱の政局に肥前藩を登場させようとして、実に焦慮した。しかし、藩主・鍋島直正(閑叟)は公武合体の立場に立ち、終始自重的態度を持して動かず、変革の過程は、大隈の焦燥をよそに肥前藩とは関係なく薩長両藩を中心として進展して、ついに明治維新となった。

 慶応4年(1868年)3月、大隈は参与・外国事務局判事に任じられて、長崎在勤を命ぜられ、こうして彼は明治新政府に仕えることになった。ついで、官命によって京都に赴くが、それは当時外交上の大問題となっていた浦上切支丹宗徒処分問題について外国側との交渉の局に当たるためであった。30歳を越えたばかりの若き大隈は、この折衝においてイギリス公使パークス(sir H. Parkes)に単独で立ち向い、烈しい論争を交えて屈せず、その縦横の才略と毅然たる態度とは、新政府要路のひとびとに大隈の存在を強く印象づけることになった。そもそも維新の主たる推進力は薩長二藩であった関係から、明治新政府においては周知のようにこの両藩の出身者が巨大な勢力を擁してわが世の春を謳歌することになった。これに対して、維新の変革を無為の中に傍観した肥前藩出身者の肩身は甚だ狭く、大隈の前途も亦、おのずから光明に乏しいものにみえた。けれども、浦上問題についてのこの折衝を糸口として、「運命の星」は彼の上に光を投げかけることになった。

 同じ年の12月外国官副知事に任じられたが、その彼は贋造貨幣問題というこれ亦当時の外交上の難問題について外国側と交渉を試みることになった。そして、その問題は財政と深く関連することもあって、会計官副知事も兼任した。彼が財政に関係したのは、実にこのときからである。大隈は後年に回顧して、当時の自分は財政のことには「真個の門外漢」であったが、外交との関係上やむを得ず財政に手を染めることになった。と語っている。臨機に策を立てて果断、決行する性格の彼はやがて財政の根本的立直しを企てるとともに、外国側と交渉を重ねて、幣制度早急の改革を約束して、ついに局面を収拾した。大隈は明治2年4月から会計官副知事専任となった。

 明治3年には参議兼大蔵大輔となった。このとき参議に列していたのは、大久保利通(薩摩藩)、木戸孝允(長州藩)、広沢真臣(同)、佐々木高行(土佐藩)、斎藤利行(同)であった。それ故に、維新の変革にあたって活躍することのなかった藩の出身で参議になったのは、当時は大隈ただ一人であった。この異例の昇進は何に因るか。それは外交・財政が国政の重要な分野でありながらもその処理には本来特殊の能力・知識を必要とし、曽ての「尊攘の志士」たちの必ずしも得意としない特殊の領域であった。そのような分野で、大隈が機略・闘志をもって難局に当り、臨機・迅速な解決を与えたことに原因する。当時木戸は大隈のこの才略を「義弘、村正の名剣」に喩えた。

 明治6年予算編成問題で時の大蔵大輔井上馨が辞職すると、大隈は大蔵省事務総裁を兼任することになり、困難な予算の編成を達成して、その手腕を示した。ついで、同年征韓論争で西郷隆盛以下の征韓派諸参議が連袂辞職したあと、政府の陣容立直しが行われ、その結果、彼は大久保のあとを襲って参議兼大蔵卿に就任した。そして、大久保は爾後参議兼内務卿として岩倉具視(右大臣)の下で政府の中核となるが、大隈は伊藤博文とともに大久保の羽翼として彼を補佐することになった。なお、伊藤はこの政府再建の際に工部大輔から参議兼工部卿に昇任したのであった。大隈は、このように新政府内に次第にその地歩を築いた。但し、それにもかかわらず、枢機は岩倉具視、三条実美(太政大臣)を別とすれば依然として薩長出身者の手に掌握されていた。それ故に、陸奥宗光が指摘したように、廃藩置県、征韓論争、大阪会議など新政府が当面した重要段階においては大隈はつねに単に第二義的な役割を演じるに止まるか、又は局外に置かれたのであった。

明治10年に西南戦争が勃発すると、大蔵卿たる彼は財政困難の中で不換紙幣の発行に訴えて戦費の調達を行い、その才幹を大いに評価された。ところで、この西南戦争下において木戸孝允は歿したが、翌11年には大久保利通が紀尾井坂の変に倒れた。そうなったとき、大隈の前途ははからずもここに大きくひらけた形になった。もはや上から彼を制御するものはなくなり、且つ彼は今や参議首席ということになった。大隈は伊藤とともに政府の中枢を形づくるにいたったのである。明治11年には彼は41歳であった。


2022年1月18日火曜日

20220118 日本経済新聞出版社刊 ジャレド・ダイアモンド著 小川敏子、川上純子訳「危機と人類」上巻pp.143‐147

日本経済新聞出版社刊 ジャレド・ダイアモンド著 小川敏子、川上純子訳「危機と人類」上巻pp.143‐147

江戸幕府が日米和親条約を締結し、200年以上もつづいた鎖国が終わった1854年からの14年間は、日本の歴史のなかでの激動の時代だった。むりやり開国させられた結果生じたさまざまな問題に、江戸幕府はどうにか対処しようとした。だが、最終的に徳川将軍家はその対処に失敗する。開国が引き金となった日本社会や江戸幕府の変化は、もはや止めようがなかったのだ。それらの変化は今度は、国内の対抗勢力による討幕につながっていき、さらにその対抗勢力によってたてられた新政府のもと、広範囲にわたる変化が起った。

 日米和親情弱と、イギリス、ロシア、オランダが結んだ同様の条約では、日本との貿易をはじめるという西洋諸国の目的はかなえられていない。その初代アメリカ総領事が公称をし、より広範な条項を含む日米修好通商条約を1858年に締結した。この条約には貿易に関する条項がしっかり入っていた。今回もアメリカとの条約締結につづいて、イギリス、フランス、ロシア、オランダとの類似の条約が締結された。やがて日本国内では、これらの条約が屈辱的だとみなされるようになり、「不平等条約」と呼ばれるようになった。そこには、日本は西洋列強諸国のような扱いを受ける価値がない、という西洋諸国の意識が具現化されていたからである。たとえば、西洋諸国に領事裁判権が認められておち、西洋人は日本で裁かれなかった。つぎの半世紀の日本の政策の最優先目標は、この不平等条約を改正することとなった。

 1858年当時の日本の軍隊はまだ脆弱で、この目標を達成できるのは、はるか未来のことのように思われた。そこで江戸幕府はもっと控えめな中間目標を設定する。それは西洋人による介入、その思想の侵入や影響を最小限に食い止めることだった。その目標を達成するために、日本は、その条約を遵守する姿勢をみせつつ、実際はじりじりと先延ばししたり、合意内容を一方的に変えたり、西洋人が日本の地名をあやふやに覚えていることを利用したり、西洋各国を競わせたりしていた。1858年に各国と結んだ条約では、日本は貿易をおこなえる「条約港」を5港に限定させることと、外国人の居住や外出を港の周辺地区に制限し、その範囲を超えた移動の禁止に成功する。

 時間稼ぎが、1854年以降の江戸幕府の基本戦略だった。これは、西洋列強を(できるだけ少ない譲歩で)満足させつつ、西洋の知識、設備、技術を手に入れ、軍事力と軍事力以外の国力を増強し、できるだけ早い時期に西洋列強に抵抗できる能力を身に着けるためだ。幕府と、薩摩藩や長州藩などの有力諸藩は、西洋の船舶や大砲を購入して軍の近代化を図り、欧米に留学生を派遣した。学生たちは、西洋の航海術や造船、工業、土木、科学技術といった実際的な学問ばかりでなく、西洋の法律、言語、憲法、経済、政治学、文字なども学んだ。幕府は、蕃書和解御用を発展させて蕃書調所を設立して、西洋の書物を翻訳したり、英語の文法書や辞書の制作を援助したりした。

 このように幕府と有力大名は力を蓄えていったが、西洋人との接触により、日本国内ではさまざまな問題が生じつつあった。幕府も薩長も、武器の購入や留学生の派遣にともなう出費のため、外国人から多額の借金をしていた。物価が上昇し、生活費を圧迫する。幕府は独占的に外国との貿易をおこなおうとしていたが、それに反対する武士や商人も多かった。一度目のペリー来航の際に対応をめぐって幕府から下問を受けた諸大名のなかには、これまでのように幕府がすべてを決めるのではなく、もっと諸大名が国の政策や計画策定にかかわるべきだと思うようになった者もいた。西洋列強と交渉し、条約を結んだのは幕府だったが、条約に反する行動をとる諸大名を抑え込むことができなくなっていた。

 その結果、各所で衝突が起こった。まず西洋列強と日本のあいだに、開国の規模をめぐる争いが起きていた。西洋列強は、より開国を促進したかったし、日本の多数派意見は、出来るだけ開国を小規模に抑えることだった。昔から幕府に敵対心を持っていた薩長は討幕姿勢を鮮明化させ、西洋の装備や軍事知識を取り入れ、薩長同盟を結んで幕府と争った。大名同士の争いも増えた。本来朝廷の意に沿って行動することになっている幕府と、名目上の国主だった天皇とのあいだにまで対立が起った。たとえば、朝廷は日米修好通商条約の内容に勅許を与えなかったが、幕府はそのまま条約を調印してしまったのだ。

 日本国内でもっとも先鋭化したのは、日本の基本的戦略におけるジレンマをめぐる対立だった。今、外国人に抵抗し、排斥すべきか?それとも、日本がもっと国力を充実させてからにするべきか?幕府による不平等条約の調印は、日本国内に反発を引き起こした。日本を侮辱した外国人への怒り、日本が侮辱されるのは許した将軍や諸大名への怒りに火をつけたのだ。1859年頃はすでに、一途な若い武士たちが、怒りに駆られ血気にはやって刀をひっさげ、外国人を追い出すために、暗殺を繰り返すようになっていた。彼らは「志士」と呼ばれるようになる。彼らは、自分たちが伝統的な日本の価値観だと信じるものに訴え、自分たちは年寄りの政治家たちよりも倫理的に優れた存在だと考えていた。

日本経済新聞出版社刊 ジャレド・ダイアモンド著 小川敏子、川上純子訳「危機と人類」上巻
ISBN-10: 4532176794ISBN-13: 978-4532176792

2022年1月17日月曜日

20220116 新年に入りしばらく経ちましたが「今年の目標について」

先ずはじめに、過日発生の南太平洋トンガ沖での海底火山大噴火の影響による、津波からの各地の被害が出来るだけ軽微であることを願っています。

さて、年があらたまり、早や2週間以上経過しましたが、特に心が躍るようなニュースもなく、また、2020年初頭以来の新型コロナ禍は引き続き、私見としては、新春の晴れ晴れしさは乏しく、欝々とした日々が続いているように思われます・・。他方、当ブログは、残り当記事を含めて8記事の投稿により、当面の目標としている1700記事に到達することが出来ます。そして、1000記事を折り返し地点として、この程度まで継続することが出来たことは、私としては驚くべきことであり、もちろん、自分の努力のみに帰するものとは思いませんが「多少は頑張った」と云えるのではないかとも思われます。

あるいは、以前のキリの良い1500記事にて止めておいた方が良かったのではないかと思うことも、未だ度々ありますが、このあたりにまで(どうにか)至りますと、目前とも云える1700記事到達の次にある1800記事まで(どうにか)継続することが出来るのではないかと、ある程度現実的に認識出来るのかと思いきや、1800記事への到達に関しては、現実感は皆無と云え、あるいは、今後さらに3カ月ほど継続し、1750記事あたりにまで到達出来れば、また異なった観念的視野がひらけるのではないかといった、いわば希望的観測をボンヤリと持っているのが実状と云えます・・。

そして、視点を当ブログから転じて、今後、そして今年の目標について考えてみますと、もちろん「新型コロナ禍が多少落着いてから」という前提に基づいてではありますが、鹿児島と和歌山へ訪問してみたいと考えています。また、ここ数年間閲覧することがなかったJREC-INや他の求人サイトなどで週2日程度のパート・タイムの職を見つけて応募したいとも考えています。そして、その具体的な内容とは、さきの鹿児島、和歌山への訪問の願望とも被りますが、定期的にそうした西南日本地域への訪問を要し、職務内容は、それら地域にある複数大学での新たな面白い取組みを取材し、記事としてネット上にて発信するといったものを考えています。こうしたことは既にどなたかが事業として行っているのかもしれませんが、定期的に首都圏からの他者が訪問し、取材をして記事を作成するというスタイルは、あまり多くはないと思われます。

しかし、もう少し考えてみますと、こうしたことは、わざわざそうした職に就かなくとも、大学への理解と学識があり、そうしたことに興味を持っているほかの方々との連携によっても、何かしら出来るのではないかとも思われてきました・・。

また、そうしますと、その分野は私の場合、歯科医療分野に限定されがちとなりますが、しかし、近年、多職種連携が積極的に実践されつつあると云える歯科医療分野において、私のような歯科医療分野に多少縁があり、且つ専門分野的には、海のものとも山のものともつかない人間を情報発信のインター・フェイスとして用いてみるのは、それなりに時宜に適っているのではないかとも思われるのですが、さて如何でしょうか?そして、そうであれば、ハナシは冒頭に戻り、これまで(どうにか)継続してきました当ブログにも、何かしら付加的な意味を見出すことも出来るのではないかとも思われる次第です・・。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

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2022年1月14日金曜日

20220114 昨日からの英論文を読んでいて思った「口頭にて英語を用いる経験の経緯について」

 昨年の暮れ、犬の散歩を利用して年賀状を投函しようと、作成した年賀状の束をコートの胸ポケットに収めて出て、郵便局前のポストに投函し、犬の散歩も終えて帰宅しました。そして、年があらたまった、ある日、また犬の散歩をしようと、その時と同じコートを着用して出たところ、胸ポケットに少し違和感があったことから手を入れてみると、昨年暮れに投函したと思っていた年賀状が何通かありました。

これら年賀状の宛先を見てみますと、歯科理工学の師匠を含め、それぞれ(大変)お世話になっている先生方であり、そこから、あわてて投函しましたが、遅れてしまい大変申し訳なく思う次第です・・。

さて、先日来から読み進めている師匠による英論文ですが、電車内などでも読み進め、半分ほどにまで至りましたが、考えてみますと、以前、歯科理工学を専攻していた際は、師匠の英論文をまとめた冊子を、始終持ち歩いて読んでいましたので、その文体には慣れていると云えます。

また、3年前の10月に奈良で開催された日本デジタル歯科学会学術大会の際には、師匠は英語にて特別講演をされていましたが、その時の内容も、私としては分かり易く、概ね理解出来ていたものと思われます。これは、当時(2019年)にあっては懐かしくも新鮮な感覚であり、その翌日に和歌山にて開催された人文系の勉強会において、そのことを多少興奮気味に話していた記憶があります・・。

しかし、何時頃から、こうした自分の研究内容あるいは、その近接分野での、英語による講演等の内容を理解出来るようになったのかと思い返してみますと、それは2009年、鹿児島に移り住み、数カ月経った、歯科理工学会の九州支部会での夏季勉強会に参加させて頂いた時であったように思われます。

この年の夏季勉強会は、福岡県の柳川市にて開催され、九州各地の歯科理工学分野の研究者が集まり、そこでは、若手院生による、学会発表の練習なども兼ねての発表があったり、他方で、ベテラン研究者による経過報告のような発表もあって大変活発なものでした、さらに、そこで私が驚いたことは、玄界灘の向こう側の韓国の研究者の方々が多数参加されていたことでした。そうした事情から、当勉強会での公用語は英語となっており、そうした中で師匠とQ大のI教授による英語での議論は、なかなか白熱したものであり、しかも、その内容が、それまでに読んできた英論文とも相通じる内容があり「おお、こんな難しそうなことを議論しているのに、その内容が少しは理解出来ているぞ・・。」といった感じを受け、その驚きを休憩時間に先輩院生に話したところ「ああ、しばらく英論文を読んでいると、その分野での口頭のやり取りも大体は分かる様になるよね。」といったお返事を頂きました。

さて、そのように考えてみますと、では私は何時頃から本格的に口頭での英語を用いるようになったのかと思い至るのですが、それは、これまでにも当ブログにて何度か述べましたが、ホテル会社(三井観光開発株式会社)に就職してからであったと云えます。

入社1年目の頃は、そうでもありませんでしたが、2年目にフロントへ転属になってからは、月に何度かは英語を用いる機会がありました。またそれは、その翌年に南紀白浜へ転勤になってからは少し増え、私としては、この業務が特に好きというわけではありませんでしたが、それでも休日には英語の勉強になりそうな映画作品DVDを英語字幕にて鑑賞したりしていました・・。

さらにその後、和歌山にて人文系の大学院生となってからは、そこでは留学生が比較的多く、自然、そうした場での公用語は英語となりましたが、そうした中で私はいくらか積極的に彼等彼女達と交渉を持っていたのではないかと思われます。

そのように考えてみますと、私の口頭による英語を用いる経験は、その後の歯科技工専門学校在学時代(2007~2009)はほぼ空白であったと云えますが、それまでには、少しはあったことが思い出されました。そして、この歯科理工学分野での英論文の読解や試料作製の日々がしばらく続いた後、こうした機会(夏季勉強会)に自身のいわば「進化」と評しても良い変化を認識しますと、何と云いますか、精神が励起されるのでしょうか、その後、柳川市から博多そして広島まで出て、そこからフェリーに乗り、当時、松山市に在住していた親戚と会った時には、そのことを半ば喜々として話題にしていた記憶があります・・。そして、この状態がさらに亢進するとD2病に至るとも云えます・・(苦笑)。

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2022年1月13日木曜日

20220113 久しぶりに歯科理工学分野での英論文を読んで思ったこと

先日、歯科理工学の師匠から、御自身が執筆された新たな英語論文が論文サイト上にあることを教えられ、早速それをダウンロード、プリント・アウトして、昨日よりこれを、他の読み進めている書籍と併行して読み進めています。そして、それらを交互に読んでみますと、読み始めの頃は、読むための脳?の切替が出来ておらず、少々難儀しつつ、いわば、自身をチューニングすることになります。これは、その分野での文章を読み進めることにより、徐々に為されていくものであり、しばし読んでいますと、その文章の背景概容も思い出され、そして、理解をしつつ読み進めることが出来ているといった感覚を覚えますが、これが、上述のチューニングとなります。

しかし、考えてみますと、こうしたこと(切替)は、以前の自身は、もっと自然・無意識に行っていたと記憶しています。かつては実験などの作業を行いつつ、英論文などを読んでおり、その後、帰宅してからは、小説や他分野の専門書などの読書を日常的に行っていましたので、そうした「チューニング」などと、考えることもなかったのだと思われます。

また、そのように考えてみますと、私にとって歯科理工学分野での、そうした背景概容となるものは、2007年の歯科技工専門学校入学からはじまるものであり、他方で、人文系のそれに関しては、いわば、それまで学んできた期間全てとも云えますので、それら比率で云いますと、人文系の方が、より長いと云えます。くわえて、私の元来の性質は、人文系の方が好きであると考えていますので、そこに耽溺し停滞しないためにも、敢えて私にとっては、この分野での英論文に触れることに、重要な意味があるのではないかと思われました。

そしてまた、ここで新たに思ったことは、そうした前述の「チューニング」を要するような、いわば感覚の断層を経験した際に、何と云いますか、文章のもとになるような「言語による意識の流れ」を知覚することが出来るのではないかということであり、そこから、さきに述べた、元来、私にとっては異質とも云える歯科理工学分野での英論文に触れておく大きな意味があると思われるのです。

さまざまな分野での英文文体がありますが、私としては、歯科理工学分野でのそれにより、いわば、すり込みが為され、その後、しばらく経ってから、書店にて偶然手に取った英語版の小説が意外にも読めることが分かり、英語の勉強も兼ねて、しばしば洋書を購入するようにはなりましたが、ここで、久々に読む歯科理工学分野の師匠による英論文は、私にとってはかなり新鮮であり、また、卑近には、今回のブログ記事の題材となりました。そしてまた同時に、そこで覚えた感覚は【架空の話】の題材にもなると思われましたので、それにつきましては、また後日、作成したいと思います。

しばらく【架空の話】の続編を作成していませんが、近日中での作成を考えていますので、どうぞよろしくお願いいたします。また、今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
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2022年1月12日水曜日

20220111 1690記事の到達、これまでの継続期間について思ったこと【変化の種類と、その知覚について?】

今回の記事投稿によって、総投稿記事数が1690に達します。そして、当面の目標である1700記事への到達まで、残り10記事となり、また、それを今月1月内にて達成することの目途も立ちますが、それでも、未だ目標に到達したわけではありませんので、今しばらく、記事作成を継続したいと思います。

過日投稿の記事においても述べましたが、ブログ開始当初から1000記事到達までと、その後、1700付近といえる現在に至るまででは、それぞれの過程にて覚えた困難さの程度は、明らかに後者の方が大きく感じられ、また、それは、それまでに要した期間によっても理解出来るのではないかと思われます。

それは、はじめの1000記事到達までに約3年の期間を要し、その後、更に690記事の追加に至るまでは、そこから約3.5年を要し、それは、当初の1000記事到達までに要した期間と比べ、記事投稿頻度が下がっていると云えます。そして、その要因は、モチベーションや記事材料の減少によると思われますが、それでも、作成してきた私からしますと、2018年の1000記事への到達から、現在に至るまで、当ブログが(どうにか)続いていることに対して、多少、驚きの念を禁じ得ないのが正直なところです。

この上述の自身ブログに対する感覚は、一般的なものであるのか未だ分かりませんが、当初、ほぼ毎日1記事の投稿を続け(どうにか)1000記事にまで至り、その後はあまり無理をしないように更に継続し、そして、そこから約3年半後に(これまたどうにか)1690まで至ったということは、さきに述べたとおり驚きであると同時に、それまでの毎日1記事の投稿頻度から下がってしまうことは、自然なことであるようにも思われるのです。

実験などで云いますと、それは期間の経過に付随する投稿記事数が、ある程度にまで達し、その割合が下がったものの、止まることはなく、続いているといった状況、あるいは、当初の投稿頻度から下がり、プラトーな状態に至ったとも云えますが、そうした、あまり芳しいとは云えない状況の中で、自分の不調さに耐えきれず、ある程度まではブログを継続したこともあり、記事作成自体を止めてしまうことは、これまでの経験から、もったいないことであると云え、そこで多少踏ん張り、続けるその先にのみ、新たな、経過期間に対しての投稿記事数の割合などによってはかることが困難な、いわば「量から質」あるいは「相変態的」な変化があるのではないかと思われるのです・・。

とはいえ、そうしたいわば「劇的」とも云える変化は、これまでに感じたことはなく、残念ながら今現在においては、これはあくまでも自分が考える「仮説」であると云えます・・。

しかし、そうした「相変態的」な変化が、もしも瞬時、あるいは短期間のうちに生じるのではなく、ある程度の期間をかけてなされるのであれば、それを体感に基づき感じ取ることは困難であるのかもしれません・・。

そしてまた、この見解がある程度妥当であるならば、それと同じ理由により、ブログの継続を止めることが、今度は何といいますか「怖く」感じられてくるのです・・。

ともあれ、ここに至っては、そうしたモヤモヤを抱えたままであっても、あと10記事新規に投稿し、今月内での1700記事の到達を目指したいと思います。

そして、この目標をどうにか達成出来ましたら、またしばらく、記事作成を休んでみようと思います。


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2022年1月10日月曜日

20220109 久しぶりに、対話形式のブログ記事を作成したことから思ったこと

 一昨日の投稿記事は対話形式にて作成しましたが、これは、かなり久しぶりであった割には、思いのほかスムーズに作成することが出来たと思われます。ここ最近は、以前にも述べましたように【架空の話】もしくは書籍からの抜粋にて記事作成を行うことが多かったことから、その他の文章形式については、あまり考えていませんでしたが、不図した思い付きで、どうにかこの形式にて作成出来たことは、2015年のブログ開始当初の頃は、それを困難に感じていた記憶があることから、この6年半程度の継続で、その点については、多少進化したのではないかと思われました。

これをもう少し述べますと、アドリブにて文章を継続的に作成し、それらをブログ記事として公表することは、6年半前の私にとっては、能力的に、そして精神的に難しいことであったのです。また、そうした事情もあり、開始当初の頃は、自分で記事を作成する必要がない、書籍からの引用記事が多かったのだと云えますが、この引用記事の作成も現在、振り返ってみますと「自分の文章」を作成するための練習になったと思われます。

換言しますと、普段、読んでいると思っている書籍の記述ではあっても、それをキーボードを通してブログ記事としていますと、その記述部について、また新たなことに気が付かされ、そこから、その記述の意味などについて、さらに考えさせられ、そしてまた、自分がこれまでに知っていた他のそうした知識と関連させて考えることが出来るようになり、そして、その考えを「自分なりに文章として著してみたい」と思うようになるのです。

そして、その「思い」が原動力となって、能動的にブログ記事を作成、投稿した後、それが思いのほか多くの方々に読んで頂いていますと、作成者としては、さらに、記事作成に対しての能動性が強くなるのですが、こうしたことは、開始当初から3年ほど、あるいは1000記事到達のあたりまでは、たしかにそうであったと記憶していますが、そこからの、現在に至るまでの期間(3年半)のなかで、そうした新鮮さは徐々に乏しくなり、他方で、ブログ記事の継続的な作成については、ある程度の経験があることから、たとえ、能動的とは云えない記事作成ではあっても、さきの経験に基づいて、どうにか記事作成をこなすことは出来るようになっていたのですが、おそらく、端的にこれが6年半前の私では(能力的・精神的に)出来なかったことであると云えます。

そうしますと、どの程度まで普遍化することが出来るか分かりませんが、さきに述べた記憶と関連させますと、ブログは開始後3年あるいは1000記事程度まで継続しますと、その先からは、当初からの能動性よりも、それまで継続してきた経験によって記事作成が可能となるのではないかと思われますが、あるいは、以前に知った「ブログは1000記事を越えてからが勝負だ」との見解の意味は、このことに何か関連があるのではないかと思われます・・。

その意味において、たしかに1000記事到達の前後では、後の方が困難さを感じたと云えますが、そうであっても、現在に至るまで、どうにか継続はしていることから、もう少し続けてみようと思います。そしてまた、その先には、また前記の自分の能力や精神の変化を感じ取ることが出来るようなことがあるのでしょうか・・。

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2022年1月7日金曜日

20220107 久しぶりの対話形式「記憶にある経験の文章化について」【架空の話】から

A「新年になりましたが、相変わらずブログ記事の作成は続けているようですね。」

B「ええ、相変わらずで、どうにか続けています。それで、あともうしばらく続けますと1700記事に到達出来るのですが、そこまで到達しましたら、今度こそは、しばらくブログ記事の作成もSNSも、しばらく休んでみたいと考えています・・。」

A「ええと、たしか6年間でしたっけ、そのブログを続けてきたのは・・それで、その期間は大体、どのくらいの頻度で投稿してきたのですか?」

B「ええ、これまでの期間全体を均しますと、大体10日のうち7日は新規で投稿してきたことになりますので、自分としては割合続いている方であると云えます。また、その一方で、その止め時については、考えていませんので、1700記事に到達しましたら、そのあたりのことも、また落着いて検討してみたいと思います。」

A「うん、まあ、そのくらいの期間続けているのであれば、予め目標を決めていなかれば、ズルズルと続けてしまうかもしれませんからね・・。しかし、この場合、あえて止めなくとも、折角ここまで続けることが出来たのであれば、続けてみても良いのではないでしょうかね・・。」

B「ええ、まあ、たしかにそうではありますが、そうであっても、次の良い区切りに到達出来たら、本当に長い休みを一度入れた方が、心機一転して良いのではないかと思われるのです。ここ最近は、これまで多かった独白形式よりも、以前から断続的に書き継いでいる【架空の話】を書く事が多いのですが、この作成に少し慣れますと、面白いことに今度は、独白形式の記事を書く事が難しく感じられるようになるのです・・(苦笑)。とはいえ、そうした感じは、昨今においては、あくまでも書き始めの当初のみであり、しばし我慢して腰を据えて書き続けていますと、次第に調子が出てきて、どうにか適当な区切りまでは書けてしまうのです・・。こうした、ある種の芸当はブログ開始当初の頃は出来なかったと記憶していますので、この点においては、わずかではあれ進化したのかもしれません・・。」

A「Bさんのブログは現在も更新されていて活動中でしょうから、なかなか、そうした自分の変化には気が付きにくいのかもしれませんが、それでも、この6年間での気が付いたその他の変化のようなものはありますか?」

B「・・そう云われますと、すぐには出て来ませんが・・ええと、これまでに80程度作成しました【架空の話】のような様式の文章は、以前の私では書く事が出来なかったと思われます。つまり、これら【架空の話】は、もちろん創作部分もあるのですが、その記述の多くの基には、実際の経験があり、そして、それら経験の記憶に対するアプローチの仕方が、なかなか掴むことが出来なかったのではないかと思われるのです・・。もしくは「記憶を文章化する際の記憶への距離感のとり方」のようなものが分からなかったのだとも云えますが、この【架空の話】については、最近では、書き始めのエンジンがかかるまでには時間がかかることが多いのですが、いざ書き始めてみますと、徐々に調子が出て来て、やがて、近年の私としては珍しく、時間を忘れていることもあるのです。また、その記述内容の確認の為に書籍を開いたり、あるいはネット検索をすることが度々あるのですが、こうした作業も【架空の話】作成のためであると、どうしたわけか割合面白く感じられるのです・・。」

A「ふーん、そうしますと作成に熱中しているのでしょうね・・。そして、そうして作成した【架空の話】が多くの人に読まれると、やはり、嬉しいものなのでしょうか?」

B「ええ、それは端的に嬉しいと云えますが、それでも、ここ最近は【架空の話】の先の展開について考えさせられるようになりましたね・・。」

A「はあ、それはどういうことですか?」

B「【架空の話】が自分の作成した文章としては、比較的多くの方々に読んで頂いていることは、もちろん、とても嬉しいのですが、その先の展開によっては、読んでくださる人数も変わってくるとも思われるため、恥ずかしながら、どうすれば、さらに多くの方々に読んで頂けるかといったこと考えてしまうのです・・。また、それについて最近考えが落着いたのは、この【架空の話】では、私が経験した家族の死や、師匠の退職といった、いわば「大きい負の出来事の記憶」に関しては、敢えて【「架空」の話】に入れるのは如何なものかと考えて、それらの影を話の中に落とさないようにしようといことです・・。」

A「ああ、たしかにそうした出来事の記憶を【架空の話】ではあっても、文章で表現することは難しそうですからね・・。それに、たとえそれで【架空の話】を作成しても、読まれる方々はどう思うか分かりませんからね・・。それで良いのではないでしょうか。」

B「ええ、しかし今後も続けていきますと、そうした記憶も、たとえ【架空の話】であってもなくても自在にとは云いませんが、文章化出来るようにはなりたいですね・・。しかし、同時に思うことは、案外と、こうした、何と云いますか、意思を伝達するものである文章表現の練達のためには、そうした、いわば功利的動機が上手く作用しないのではないかと思われるのです・・。これも未だ上手くは云えないのですが・・。」

A「ああ、説得と対話の違いのようなものでしょうか・・。たしかにそういったことは全面的ではないにしても、あるかもしれません・・。」

ともあれ、今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
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