2021年9月29日水曜日

20210928 既投稿記事をいくつかまとめたもの⑥

一般的に金属製品は鍛造・圧延・切削などの方法によって加工・成形されるが、材料である金属の本質である優れた機械的強度により、その加工等には、かなり多くの労力が必要とされる。また、金属加工開始当初の時代にあっては、複雑な形状を持つものを作成することは、極めて困難であったと思われる。

そして、この機械的強度が優れた金属を材料として所望の形状を付与することを可能にする技術が鋳造であり、鋳造においては金、銀、銅、鉄、亜鉛、錫、アルミニウムなどの金属を単独にて、あるいは、それら複数を合金化して用いる。人類が鋳造に用いた金属、合金として最も古いと考えられているのが銅、そして銅と錫の合金である青銅である。

鋳造の起源は紀元前3500~4000年の頃のメソポタミア(両河地方)にあると考えられている。青銅を加熱し、液相状態となったものを鋳型に鋳込むこの方法は、我々人類のモノづくりの歴史のなかでも、かなり古いものであり、また、その当時にあっては画期的な方法であったと云える。

そこから鋳造技術は時間をかけて東西へ伝播していった。西に位置する古代エジプトにおいては、紀元前2000年頃には定着しており、そして、東に位置する古代中国においては、殷、周の時代、紀元前1500年頃以降が青銅器時代とされている。

他方、世界史の区分にて青銅の次にくる「鉄」については、その融点・液相点が銅、青銅よりも相当に高いことから、精錬や加工に用いる炎を制御する技術が、その水準に発展するまでに時間を要し、さきの銅・青銅での鋳造発祥の地であるメソポタミア(両河地方)においては、紀元前1200年頃、またエジプトでは紀元前1100年頃、そして中国においては紀元前600年頃に鉄器時代へと移行したものと考えられている。

そして、さきの金属加工技術の発祥の地とされるメソポタミア(両河地方)やエジプトからすると、東の果てとも云える当時の日本列島では、国外最新の事物は、主に中国や朝鮮半島を経由して齎され、さきの青銅、鉄などの金属加工技術もまた、中国や朝鮮半島から、あるいは戦乱を避けるためであったのか、ともあれ波状的に我が国に齎されたものと思われる。

また、我が国での青銅や鉄による金属器文化の受容の様相も、さきに述べた我が国の地理的な事情から特徴的であり、遥か西域のメソポタミア(両河地方)において、かなりの時間差があり始まった青銅、鉄器文明が伝播し、そして我が国に齎されたのは、青銅と鉄、双方が、ほぼ時を同じくした紀元前400年頃であった。

すなわち、メソポタミア(両河地方)から日本列島まで青銅器文化が伝播するのに3000年ほどかかったが、鉄器文化の方は約1000年で同じ路程を踏破したのだと云える。
あるいは異言すると、鉄器文化のメソポタミア(両河地方)からの伝播が、青銅器文化のそれよりも2000年ほど遅かったことから、我が国においては青銅、鉄器文化の双方が、ほぼ同時代(紀元前400年頃)に齎されたのだとも云える。

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2021年9月28日火曜日

20210928 記事作成のための「意欲」を支えるもの・・

徐々に季節も秋めいてきていますが、未だ私の記事作成意欲は湧いてきません。そこから、やはり今年中は当ブログのことをキレイに忘れた方が良いのではないかとも思われましたが、他方でSNS(ツイッター)の方をしばらく眺めていますと、どうしたわけか、半ば惰性のように、新たなブログ記事の作成をはじめているのです・・(苦笑)。

作成するのであれば作成する、しないのであればしないと、ハッキリと決めてしまえばよいのでしょうが、PC前に座り、記事作成に至るまでには、何やら、グダグダとはしつつも、どこかで記事作成を意識しており、やがて、機が熟してか、満を持してか、記事作成をはじめることが多いため、そう簡単に短時間で「作成する・しない」を決めてしまうのは、ある意味、勿体ないようにも思われるのです・・。

とはいえ、実際に、短時間で決めたり、あるいは、予めスケジュールを定め、それに沿って日々の記事作成「する・しない」を決めるのも効率的で良いと思われ、また実際に、以前はそのようにして作成していましたが、ある程度の期間、記事作成を続けて多少疲れているとも云える私からしますと、そうした過去を振り返り、現状、あるいは将来の記事作成に役立つ「何か」を見出そうとすることは、それなりに大事なことであるようにも思われるのです。

そう、はじめに、ある種の意欲のようなものがあってこそ、記憶は自然に想起されるのだと思われますが、その「はじめの意欲」がなかなか湧かないのです・・。あるいは、この意欲枯渇気味の状況とは、1000記事到達以降より徐々に減衰していった結果であるのかもしれませんが、そうであっても今後しばらくは記事作成を続け、1700記事まではどうにか到達したいと考えていますが、現時点では、未だ遠くに感じられます・・。

つまり、現在の私としては1700記事へもまだ遠く、さらに2000記事への到達などは、実感どころか想像すら出来ません・・。しかしまた一方で「2000記事まで作成すると何かが明確に以前と比べて変わるのかもない・・」といった興味もあり、これに関しては、以前に述べた「青臭い功名心」とは異なり、未だ、いくらかの好奇心が働くことが、こうして文章を作成しているさ中に気が付きました・・。とはいえ、これはあくまでも仮説であり、後刻、更に検証の必要がありますが・・。

また、そのように考えてみますと、ある程度の期間での継続的な活動の背景にある「意欲」もまた「青臭い功名心」や「自分の変化に対する興味」といった、単一ではなく複数の要素によって支えられているのではないかとも思われてきましたが、案外と、このあたりから考え直し、記事作成のための最適な自分を検討してみるのも悪くないのかもしれません・・。

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2021年9月25日土曜日

20210925 記憶を支える身体性?

 おかげさまで昨日投稿の記事は、思いのほか多くの方々に読んで頂きました。そして、そうした経緯もあって、本日もまた記事作成を始めた次第ではありますが、その主題となるものが未だ見出されず難儀しています・・。

そして、そうした際に最適な題材は当ブログについて何かしら書くことであると思われたため、ここ最近の当ブログに関する統計情報を見てみますと、先月の27日に投稿した「 既投稿記事をいくつかまとめたもの①」が投稿後一カ月程度としては、かなり多くの方々に読んで頂いており、過去半年間での閲覧者数は3位、そして過去1年間での閲覧者数は10位となっていました。さて、この記事の特徴と思われることを述べますと、それは「私がこれまでに作成したブログ記事と比べ、過分に文量が多い」ということが云えます。

一般的に、ブログ記事は「短すぎず長すぎず」が良いと云われ、適当な文字数としては1000~2000字程度が良いと見聞きしたことが何度かありましたが、当記事は、敢えてそれに反する書きぶりをしたにも関わらず、比較的多くの方々に読んで頂いたことから、その内容に「何か」があるのではないかと考え、あらためて読んでみますと、当記事は、話題が色々と飛びつつも、奇妙に共通するところなどもあり、さらに、引用した書籍は何れもハッキリとしたものであることから、あるいはその視点から、さらにピントを合わせてみると「何か見えてくるものがあるのかもしれない」と思わせたところが良かったのではないかと思われますが、また、こうしたことを実際に研究してみますと、意外に興味深い発見などがあるのではないかと思われます・・。

ともあれ、こうした我が国の古代を題材とした記事作成に際しては、その多くに「匂い」の記憶が伴います。それは、未だ肌寒い土地の大気に里山の梅林からの風が混ざり合い、独特の陶然とするようなものであったり、川端での野焼きの匂いであったり、あるいは海岸付近の松林の匂いであったり、あるいはまた、地域の古刹での線香の匂いであったりします。

そしてまた、そうした「匂い」の記憶が伴う知識については、それに伴う視覚的な情報もまた判然としている傾向があり、あるいは知識といったものは、五感もしくは六感を通じて能動的に為される行為の記憶によって、より記憶として強化され、さらには、それら知識を効果的に用いて活性の高い情報交換が出来るのではないかと思われましたが、ここにきて、それはもはや「身体性」というコトバの方が適切ではないかなと思われてきました。

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20210924 作成意欲があまり湧かない中で作成した記事

 1600記事到達後から、あまり変わらず、新たな記事作成に対する意欲は湧いてきません。また、この意欲があるからこそ、毎回の記事作成が出来ていたと云えることから、当記事を作成している現在の私からしますと、当記事は、意欲によって作成されておらず、これまでの記事作成期間を通じて徐々に上達した、いわば作文技術のようなもので作成していると云えます・・。

去る8月初旬に1600記事に到達してから、すでに2カ月近く経とうとしていますが、こうした状態が続くというのは、あるいは「燃え尽き症候群」と呼ばれるもののためかもしれませんが、それでも、これまでに記事作成をどうにか継続してきた6年数カ月という期間があるため、あるいは今年中は、無理に乏しい意欲を奮って新規の記事作成をしなくても良いのではないかとも思われるのです・・。

そして現在もまた、基本的にはそのように考えていますが、他方で「記事を作成出来る時は作成しておこう。」という指針を設けており、これもある程度重視していることから、現在作成している当記事を含めて丁度1625記事に到達することが出来ます。これはまた次の目標としている1700記事までの四分の一の区切りとも云えることから、私としては、そこまで悪くない進行具合であると思われ、今後もまた「作成出来そうな時は、作成してみよう。」は重視していきたいと考えています。とはいえ、基本的には、今年中は、休むことの方を優先して行きたいとは考えているのですが・・。

いや、あるいは、ここで休息を設け過ぎず、更なる記事作成を行うことにより、文章作成についての新たな境地のようなものを見出すことも出来るのかもしれません・・。しかし、今現在となっては、そうした何と云いますか「青臭い功名心」のようなものは、あまり湧いてきません。しかし、当ブログ開始の頃は、おそらく、そうではなかったと記憶していますが、こうした視点から、自分の変化を感じ取り、そして、そこからゲンナリとしてくるのですが、しかし、そのゲンナリするは、まだマシな方であり、本当に意欲が減退している時には、そのことに落胆して、ゲンナリするほどの驚きの感情すらないと思われますので、それはそれで、受け止めて考えるのが良いのではないかと思われます・・。

ともあれ、私の方は依然として、文章作成についての境地を得られることもないなかで、どうにかブログ記事の作成を続けていますが、そのうちに何かしら面白い変化でも生じるのでしょうか・・?また、そうしたことを出来るだけ精確に書く事が出来れば、それはそれで面白いのではないかと思われます。

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2021年9月24日金曜日

20210923 知識等の記憶に付随するものについて・・

先日投稿の記事にて述べた『通史的な記述を作成することの難しさ』ですが、これに関して私の場合、「その通史となる文章を組み立てる際に、どのような記憶を参照しているのか」ということが時代区分によって異なると云えます。

ここ最近が、何かに関する通史的な文章作成した記憶はなく、直近のもので、修士論文に「我が国における水稲耕作の伝播経路や起源などの歴史」についての文章を作成した時であったと思われます。

この文章を作成した背景には、ある地域の特徴を考察する際に、その地域をも包括する西日本における水稲耕作の伝播の様子などを概説的に述べる必要があり、その際に参照する記憶には、書籍に記述がある遺跡や遺物の出土地に赴いた時の、いわば身体感覚を伴ったものが多く、また、そのうちの多くには、嗅覚のはたらきと云える「匂い」の記憶があります。

その点において紀伊国、和歌山は、やはり古くは「木の国」であったことから、その山がちな地形を覆う森林から発する大気もまた、樹々や植物などの香気に少なからず由来しており、その大気が、吹き下ろす風により、低地にある現代の市街地にまで運ばれてくるという状態が、古くから現在まで続く当地のある種の「雰囲気」を規定しているものと云えます。

また、私がはじめに在住した和歌山県西牟婁郡白浜町は、古くからの有名な温泉地であることから、町中で見受けられる温泉からの湯気と、さきに述べた当地周辺樹々や植物などの香気が混淆し、何と云いますか「南方的な野趣に富む特徴的な大気」と感じられ、これは首都圏育ちの寒冷地である北海道から渡って来たの私としては、かなり新鮮なものであり、また、そうした経験がある程度積み重なった結果、自分の人生が変わったのだとも云えます・・。

他方で、近現代史に関する通史的な文章を作成する際に参照する記憶の場合、さきに述べた「匂い」の記憶が付随することは稀であり、概ねそれらは書籍の記述や、写真や記録映像あるいは映画等にて見知った当時の様相といった、主に視覚のはたらきに基づく記憶が参照され、そこには、さきに述べました通り「嗅覚のはたらきである「匂い」の記憶」は、「ない」とは云えないまでも、かなり少ないと云えます。

こうした、違った種類の記憶が参照されている状態にて、違った時代区分での「通史的文章」を作成していますと、我が事ながら少し面白いのですが、文章作成の仕方も変わってくるように思われるのです。

つまり、具体的には「匂い」といった嗅覚の記憶が、ある時代区分での通史的文章を作成する際に思い出されると、そこから、さらに別の「匂い」が想起せられて、その「匂い」による繋がりに、ある種の繋がりや文脈を見出し、それをアドリブ的に文章として作成し、追加することなども度々あると云えます。それに対し、近現代史を舞台とした通史的文章を作成する場合、そうした「匂い」に基づく記憶はなく、参照する記憶が少なくて済むことから、ある種、単純であると云えるのかもしれませんが、同時に、文章を作成しつつ、そこに更にアドリブ的に文章を追加するといったことは困難であるように思われます。

そしてまた、どちらが作成し易いといったことは、現時点においてはよく分かりませんが、こうしたことも、今しばらく記事作成を継続していきますと、徐々に分かってくるのかもしれません・・。

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2021年9月22日水曜日

20210921 「既投稿記事をいくつかまとめたもの」について

おかげさまで、昨日の投稿記事もまた、比較的多くの方々に読んで頂きました。これを読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。また、本日は新規の記事作成を考えていませんでしたが、先ほどより投稿記事閲覧の様子を見ていますと「今日も何か作っておいた方が・・」となり、つい先ほど意を決して作成を始めました・・(苦笑)。

さて、昨日、一昨日の投稿記事は、主題を我が国近現代史として作成したことから、あまり多くの方々には読まれない、いわば、習作のような記事になるものと予想していましたが、冒頭に述べたように、思いのほか、多くの方々に読んで頂いておりました。これは、自身からすれば嬉しい誤算であったと云えますが、また、それと同時に『通史的な記述を作成することの難しさ』のようなものを味わいました。たしかに、その材料となる書籍や自身ブログの記述などは、比較的記憶していると考えていますが、それらを各々いくつかの要素に分け、さらに、分けたものを適宜組み合わせて、ある程度の文量となるように並べて、一連のモノガタリとすべく、内容的に互いに関連付けるようにして、そしてまた、全体の流れなどの調整を行い、一つの記事としていくことは、以前の記事作成に対する意欲が盛んであった時期には、あまり有効ではなかったのかもしれませんが、以前に述べた1600記事到達による『燃え尽き症候群』によるものか、現時点においては意欲が枯渇していることから、この作成手法に依存してであっても記事作成が出来るのであれば、特に問題はないものと考えました。

そして後日、再び意欲が湧いてきましたら、その時はその時で、この時期での記事作成は、少なからず、何らかの役に立つものと思われます。

また、さらに以前に投稿した「既投稿記事をいくつかまとめたもの①」は、その文量が比較的多かったにも関わらず、ここ最近一カ月の中で最も多くの方々に閲覧して頂き、また、さきに述べた手法にて作成した記事としても、最も多くの閲覧数を得ていますが、その主題が古くからの事物の名称や、それに関連する習俗などについてであったことは大変興味深く、今後も機会を見つけて、こうした主題の記事を新たに作成したいと考えています。

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2021年9月21日火曜日

20210920 既投稿記事をいくつかまとめたもの⑤

こうして勝利を得た日清戦争によって、我が国は台湾等の領土を清国より割譲し、多額の賠償金を手に入れた。また、西欧諸国は日本の近代化の早さに驚き、他方で、更なる清国での権益の拡張をはかるに至った。我が国は、この勝利により、西欧諸国を手本とした近代化への確信を強め、より富国強兵政策の方へと傾斜していくのであった。

また、この勝利によって、多くの日本国民は自らが東アジアの一国の国民であることを忘れ、徒に清国を蔑み、自らを白人と擬するような傾向もまた強くなっていった。(現在においても、その影響は、良し悪しを抜きに、色濃く我々の社会に残っているのではないだろうか。)

日清戦争後の下関条約によって日本が清国から割譲した領土のうち、遼東半島は、その後の露・独・仏による三国干渉により、すぐに清国に返還されたが、その地にはロシア帝国が侵入し、実質的に自らの領土とすべく、軍港や軍事基地などの建設を行うに至った。

こうして、状況は好ましくない方へと進展し、さらに1900年には義和団の乱(北清事変)が生じ、その鎮圧にあたった西欧諸国や日本の軍隊によって構成される連合軍の中で、ロシア帝国軍の現地での暴虐が目立ち、そうした行動は、当時、朝鮮半島に権益を有し、また、新参の西欧流帝国主義国となっていた日本としては看過し得ないものであった。


さらに、こうした東アジアでの状況は、同地域に植民地などの権益を有する西欧諸国においてもまた好ましくないものであったことから、日本に同情的な国も少なからずあり、また1902年には当時の国際社会において、ワーテルローの戦い以来、最強と目されていた英国(大英帝国)との軍事同盟を締結するに至った。

その後もロシア帝国の極東地域での暴虐振りは止まらずに、1904年の日露戦争開戦へと至るのであるが、この戦争は、さきの日清戦争と比べると軍事・財政共に苦心惨憺たるものがあり、アメリカ合衆国からの調停によって、どうにか自国領土は保全され、さらに幾何かの新たな領土をも獲得することが出来、対外的には「日本国の勝利」と云えるものであったが、そこに至るまでの経緯は、当時の日本国からすると、薄氷を踏みつつ川を渡るようなものであったと云える。

また、他方において、この日本国の勝利により、ユーラシア大陸東西でのロシア帝国の南下政策によって、自国権益の保全が懸念される西欧諸国の権益を益々安泰とさせることになった。見方によれば、この日露戦争において日本は、終始、西欧諸国の権益・国益に奉仕させられたのだとも評し得る。

さきの日英同盟を結んだ英国もまた、日本に対して、極東における、そうした役回りを期待しており、あるいは端的に、それは、主人と従僕のような関係であったとも云えるが、その従僕は、後年に至り、極東にて西欧諸国から期待される役回りに飽き足らず、更なる権益の拡張をはかるようになり、面倒な状態へと陥った。さらに1920年代以降からは、欧州においては自国国益のためには、既存の国際社会に反することをも辞さないファシズム(全体主義)国家がいくつか誕生しており、この勢力と日本との同盟によって、国際社会における国々の対立がさらに先鋭化され、そして第二次世界大戦、太平洋戦争の開戦へと至る。

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2021年9月18日土曜日

20210918 既投稿記事をいくつかまとめたもの④

18世紀中期頃、イングランドにて起った産業革命は、その後、西欧諸国のみならず世界の様相を大きく変化させた。

産業革命による蒸気機関の各種用途への応用により、製品が大量生産され、それが蒸気機関車にて国内各地に運ばれ、さらに、そこから蒸気船によって国外に輸出されるといった流通経路が確立し、常態化すると、その結果、当然の如く、輸出先地域の在来産業をも含む、伝統的な土着文化が破壊もしくは大きく変形せられ、結果的に、その地域は大量の製品を持ち込んだ、産業革命を成し遂げた西欧諸国の植民地にならざるを得ない状態へと至る。

こうした状態に際し、極東の中国・朝鮮・日本といった国々は、古くからの独自文化を保持していたことから、当初、西欧諸国蒸気船の来航に対して激しく抵抗した。

しかし、こうした東アジア各国の国粋的な抵抗諸勢力は、殺傷能力の優れた火器を装備した西欧諸国軍隊に対して敗北することが多く、とりわけ、広大な国土を有する中国(当時は清王朝)は、抵抗的争いに敗れた結果、沿岸部のいくつかの地域が、半ば植民地のような状態に陥った。

一方、当時の東アジアのなかで日本のみは例外的に、西欧諸国の学問・技術等を手本として学び、順応することに努め、また、統治体制を革めて西欧諸国による国土の蚕食を免れることが出来た。

くわえて、当時(19世紀半ば頃)の西欧諸国においては、東アジア地域をも含む世界各地にて西欧諸国同士の権益拡張への牽制がしばしば為され、あるいはまた、国によっては内戦状態であったという事情も、当時の日本を利するものであったと云える。

とはいえ、こうした状況は、あくまでも恒常的なものではなく、日本はこれに適切に対応するため、速やかな、そして大きな改革な必要であることを当時の世界規模での知識を有する心ある人々は痛感していた。

この幕末期から始まる、我が国での西欧諸国を手本とした各方面での改革は、明治期にも引き継がれ、我が国においては、そのまま「近代化」や「文明開化」といった意味合いを持つと云えるのだが、その発端は、冒頭に述べた産業革命によって画期的に船足が速くなり、航続距離が伸びた蒸気船が、これまた産業革命によって、大量生産された自国製品の販路を求めて、東アジア海域に頻繁に来航するようになったことであると云える。

ともあれ、上記の経緯により西欧諸国を手本として、速やかな西欧化をはかった日本は、その後、内戦や小規模な外征を経験し、早くも19世紀末期には、隣国である中国(清王朝)と朝鮮半島の権益をめぐる対外戦争に立ち至ることになった。

この所謂、日清戦争は、西欧的な近代国家への変革をはかった日本がはじめて経験する本格的な対外戦争であり、またそれは、当時としては相当に危険な賭けであった。何故ならば、当時の日本は未だ西欧諸国から文明国であるとは見做されず孤立しており、幕政期(1858年)に結ばれた日米修好通商条約に基づく治外法権(領事裁判権)があり、これは同戦争開始直前に、ようやく英国からの撤廃に漕ぎつけることが出来たのであるが、いざ戦争が始まると、西欧を手本として変革を遂げた日本軍は、清国軍に対して陸海双方にて快勝をおさめた。

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2021年9月17日金曜日

20210917 1600記事到達後の「燃え尽き症候群」での記事作成について思ったこと・・

相変わらず、記事作成の気力は湧かず、1600記事到達後の「燃え尽き症候群」のようなものであるのか、未だ以前のようにルーチン化した(ほぼ)毎日の記事作成を始めることが出来ません・・。こうした時期もしばらくは必要であるのかもしれませんが、しかし、それに甘えていますと、記事作成が困難になってくるように思われるため、作成出来そうなときは、多少気力を振るってでも、記事作成を始めておいた方が良いと、ここ最近は考えています。

また、以前に作成した記事をいくつかまとめた記事を、ここ最近、いくつか投稿してきましたが、おかげさまで、これらの記事は概ね、私の作成記事としては多くの方々に読んで頂いています。そのため、今後もこの手法で作成していきたいと考えています。とはいえ、この手法での記事作成は厳密にはオリジナルとは云えないため、気が咎める部分も少しありますが、他方で、かつての自分が作成・投稿した記事を組合せたものでもあることから、それらの中に書籍からの引用記事があっても、まとめられた全体として何らかの(そして新たな)脈絡のあるスジがあれば、それはそれで新たなものと云っても良く、特に気が咎める必要もないのではないかとも思われるのです・・。

また、以前では、当記事作成手法を用いていなかったことから、多少、気力を振るいつつも、これまでの記事作成の継続を通じて可能となった「ブログという、いわば外部化された記憶」に依拠する新たな記事作成手法であるとも云えるのです。そして、以前にも述べましたが、この感覚、すなわち「外部化された記憶」への認識は、なかなか面白く新鮮なものであり、あるいはそこから「新たな素材になり易い、書籍からの引用記事を増やすと更に面白いのかもしれない・・。」と思うこともあります。とはいえ、これはたしかに、当ブログに何らかの有用性・機能を求め、さらに自分の作成する(多くは)拙い文章と比較しますと、こちらの方が良いと思われ、また実際に、以前、そうしたことを当ブログにて述べていたこともありますが、こちらについても、冒頭にて述べた通り、あまりそれ(書籍からの引用記事)に甘えていますと、後になり、自らによる記事作成が困難になると思われることから、ここでもやはり、多少気力を振るってでも、既投稿記事をいくつかまとめたものであれ、自身による新たな文章を作成したものであれ、何かしら自らで文章を作成したり、練り直した方が良いと思われるのです・・。しかし、そうしたことは、おそらく以前の1000記事到達以前であれば、半ば当然のこととして、あまり意識もせずに行ってきました。しかし、ここに至って冒頭の「燃え尽き症候群」によるものであるのか、そうしたマインド・セットがなくなり、それに伴って記事作成のための新たな手法を模索しているのが現在であるとも云えます。その意味で、さきの既投稿記事をいくつかまとめる手法は、自分にとって新しいものであり、その先に作成される記事内容や、あるいは、より大きくは、当ブログ全体の、この先の展開の仕方なども、見出すことが出来るのではないかと思われるのです・・。

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2021年9月13日月曜日

20210912 しばらく古い時代のことを書いて思ったこと・・(内と外?)

おかげさまで、昨日投稿分の「昨日記事の続き?銅鐸にはじまって地域の古社について」は、投稿翌日としては、比較的多くの方々に読んで頂きました。これを読んで頂いた皆さまどうもありがとうございます。また、ここ最近断続的に投稿している我が国の古代を題材として作成した一連の記事もまた、私の記事としては比較的多くの方々に読んで頂いていました。

そうしたことから、またこれを題材として記事を作成しようと思いましたが、書き続けるためには、ここで今しばらくの休憩が必要であるように思い、本日からしばらくは、さきの題材での記事作成はしないで、とりあえず書く事が出来る身近な題材で書いてみようと思うに至りました。ともあれ、そうした次第にて、この程度まで書き進めることが出来るのであれば、それはそれで、今回の企図については成功であると云えます・・。

さて、以前の1600記事到達の際に「1週間ほど休みたい」と述べていましたが、それも果たされることはなく、その後、長いときは5日程度の休みを挟みつつ投稿を続け、意外にも早く、1620記事へ近づきつつあります。これは1600記事からさらに20記事、あるいは次なる目標(1700)への5分の1の路程を既に進んだということになります。

先日(8月初頭)に1600記事に到達した記憶が未だ判然と残るなか、こうした感覚を覚えることはなかなか面白いものであり、あるいは、こうした、よく分からない未知の新しい感覚を知覚、認識するために最近は記事作成を続けてきたのではないかとも思われることがありますが、こうした感覚に適切に言語を付与して、何かしらの意味がある見解を提示することが出来れば、それはそれで面白く、やりがいがあるように思われます。

ともあれ、今回の記事は、あまり自分の外に視点を置かず、主に内面に視点を置いて作成しましたが、外界での面白い事象を見出すためにも、内面への関心を持っている方が、感覚やそれに付与する言語を練ることが出来ると思われ、そして、視野を内から外に移した時にも状況や感じたことを言語化して整理することが可能になる(「影送り」のように)と思われますので、端的に内外双方の視野を持つ文章を難なく作成することが出来るようになれば、何か面白いことが起きるのではないかと思われるのです・・。とはいえ、文章を作成している現在の私は相変わらず疲れが残り、また「今年一杯は記事作成をしないでおこう・・」と思うことも度々ありますが、とりあえずは「あまり無理をしないでも作成出来るのであれば作成しておこう」といった妥協点に落着き現在に至っています・・。

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2021年9月12日日曜日

20210911 昨日記事の続き?銅鐸にはじまって地域の古社について

昨日投稿の記事に書いた「銅鐸」について、和歌山県は、その出土数が全国的に多いのですが、くわえて興味深いことは、そこから数百年後(古墳時代)、列島に根付いた大陸由来の墓制である横穴式石室を近畿圏にていち早く取り入れたのもまた、和歌山県であることです。

おそらく、その背景には、大陸へと続く朝鮮半島に度々派兵を行っていた4、5世紀代のヤマト朝廷にて派遣軍司令官的役割を担っていた当地の豪族である紀氏の存在があると云えます。他方で時代はそこから遡り、ヤマト朝廷始祖とされる神武天皇の東征のくだりにて、紀州での描写に登場することはなく、また、それによると当地では当時、女酋長を戴くクニグニ(村邑国家群)によって治められていたようです。

そして、この習俗(統治体制)に関しては、以前に当ブログにて引用したいくつかの記事にありますが、この場合は南方に、その起源があると思われます。ともあれ、東征後、当地がヤマト朝廷の支配下になると、この地に朝廷側の股肱を差し向けたのか、あるいはそれを在来土着豪族との婚姻などにより、支配の強化を図ったのか分かりませんが、ともあれ、このあたりの事情については、当地のいくつかの古社に参拝し、それら来歴の概要を知ったのちに検討してみますと、何となくではあれ、その背景にあった事情が理解出来るのではないかと思われます。

そういえば、1974年(昭和49年)にフィリピンのルバング島より帰還した最後の日本兵O氏のご実家は、和歌山市南隣の海南市にあり、その本家は、当地の古社にて代々神職を勤められています。古社とはいえ、どのくらい古くからであるのか、その由緒についてお聞きしたところ「鎌倉時代には既にこの地に存在したという記録があり、また、それ以前にもあったと思うが、その部分の記録が焼失して分からなくなってしまった。」とのことでしたが、何故、ここで「鎌倉時代以前から存在していたと思う」と云えるのかは、ここで話はさきほどの女酋長に戻り、当社は神武東征時の当地の女酋長である名草戸畔を祀っているとされるからです。

この女酋長たる名草戸畔は、上陸してきた神武軍との戦闘にて亡くなります。そして、その亡骸の特に頭部を祀ったのが当社であるとされ、そこから、ふるくより「おこべさん」(こうべ)という愛称にて親しまれてきました。

つまり、東京における平将門のような存在が、古来より朝廷側と戦った記録や口承が遺る地域においては、より身近なものとして未だに存在し、また、そうした地域においては、おそらく、それ以降の施政者達とは、あくまでも余所者であり、地元住民との妥協や協力関係によって、どうにか統治を続けることが出来たのではないかと思われます。

とはいえ、そうしたことは、時代時代のさまざまな要因によってブレが生じることがあり、時には地元住民側が強くなり、施政者側を圧倒することもあれば、あるいはまた、その逆もあり、そうした現象自体は現在もなお、続いていると思われます。

そこから、神武軍との戦いによって死んだ女酋長の頭部を祀っているという謂れ・由緒を持つ当地の古社を包摂するこの地域社会には、一体どのような性質があるのかと考えてみますと、それは少なくとも、歴代中央官衙の考えとは相容れないものであっても、特に不思議ではないように思われるのですが、さて如何でしょうか?

また、当和歌山県においては、そうした事例がほかにも少なからずありますので、こうした事情も相まってか、目上の方に対しての「敬語」があまり発達しなかったのかもしれません・・(笑)。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

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2021年9月11日土曜日

20210910 紀伊半島西部と四国東部での銅鐸出土傾向から思ったこと・・

 これまで当ブログにて銅鐸に関する記事をいくつか作成してきましたが、私は2001年に北海道から南紀白浜へ転勤になるまでは、そもそも銅鐸についての知識や関心は皆無でした。その後、南紀での生活を通じて、徐々に興味関心を持つに至ったわけですが、そこで「何故、銅鐸に興味を持つようになったのか?」と問われますと、明晰に回答することは難しいと云えます。

かなり粗いところからですと、当時、蔵書に古書で購入した和歌山県の古代遺跡についての概説書があり、これを退勤後や休日に読んでいますと、比較的近所の自動車、自転車で少し走ったところに遺跡や遺物出土地などがあることを知り、あるいは休日のサイクリングで偶然にそうした場所に行き着き、あとになり書籍で調べなおすといったこともありました。

ちなみに私が2001年から2003年までの期間に住んだ和歌山県西牟婁郡白浜町では、伝白浜町出土とされる銅鐸は、いくつかの資料に記載があったと記憶していますが、間違いなく同町出土とされるものはなく、南紀での銅鐸出土状況は、隣の田辺市や上富田町からのものであり、そこから南では紀伊半島を東側に回った新宮市にて破砕状態のもの(近畿式とされる)が熊野速玉大社の摂社である神倉神社の境内から出土しており、これは後世(平安時代)の仏教遺跡の遺物と交ざり、実際に弥生時代末期(2世紀末、3世紀初頭頃)のものであるかは不明とされ、また、新宮市から北に続く紀伊半島東部については、その後、濃尾平野を主体とする伊勢湾文化圏に含まれる津市の雲出川流域まで銅鐸の出土例はないことから、さきの新宮での破砕状態での銅鐸の出土は、紀伊半島西部の上富田町から同半島を東に回り、かなり北上した津市までの領域での、ただ一つの出土例とされることから、尚更、その来歴の精査は必要でありながらも、同時に困難であるように思われます。

さて、以前に何度か述べましたが、紀伊半島西部では、粗く分析すると、北部に初期・小型・低装飾の銅鐸が多く、南下に伴い、徐々に後期・大型・高装飾のものが占める割合が大きくなる傾向があると云えます。

これはおそらく、その北隣の大阪府での出土傾向と比較しますと、興味深いと思われますが、他方で、これを紀伊水道を挟んだ四国東部と比較してみますと、その北端である香川県での銅鐸出土傾向は、総数20個ほどであり、それらは全て50㎝未満の比較的小型・初期のものであり、大型・後期を特徴付ける近畿式銅鐸の出土例はありません。次いで、その南に位置する徳島県での出土傾向は、総数が40個ほどであり、吉野川流域に集中する傾向を示し、県内出土の南端は阿南市であり、また、それらは総じて、さきの香川県同様、50㎝未満の比較的小型のものが多いものの、香川県での出土傾向と異なる点は、その中にいくつかの1mに達する、後期を特徴付ける近畿式銅鐸の出土があることです。つまり、総じて初期・小型の銅鐸が多いなか、いくつかの後期・大型のものが混在し、出土していることであり、こうした傾向は、紀伊水道対岸の北紀・中紀での出土傾向と幾分か類似しているようにも思われます。続いて、さらに南に位置する高知県においては、以前に述べましたが、物部川東岸までが同県内での(これまでの)出土領域とされており、その傾向は、総数は10個ほどであり、また、その殆どが50㎝以上の後期・大型の近畿式銅鐸であることです。そして、この高知県での銅鐸出土傾向は、対岸である和歌山県の特に南紀での同出土傾向と類似しているように思われます。

さて、如上の各地域での銅鐸出土傾向を眺めてみますと、香川・徳島・高知を包括した地域と、和歌山を主とする紀伊半島西部地域においては、辺縁領域に近接するにしたがって、出土する銅鐸が、後期作成の高装飾・大型のものが多くなるという、共通する傾向があるように思われます。とはいえ、これについては、それぞれに隣接する岡山県、淡路島そして兵庫県での出土傾向をさらに精査する必要があると思われますが、また同時に、一つの検討のための視座にはなるのではないかとも思われました。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

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