2018年1月31日水曜日

20180131 昨日投稿の記事についての補足:用いる言語の普遍性?

驚くべきことに昨日投稿分の記事は120人以上の方々に読んで頂けました。

読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。

しかし、この記事は投稿時の感覚では、あまり多くの方々に読んで頂けるとは考えていませんでしたので、その理由(多く読まれた)について考えてみますと、それは記事末尾近くの記述・・

『たしかに文系の学問は重要であるのですが、おそらくその更に基層・内奥にあるものとは、実際に存在する事物と、それらに付与されている名称の対応関係が明確な体系ではないかと思われるのです。そして、そうした体系の代表例がさまざまな理系学問ではないかと思われるのですが、その対応関係がアイマイなままにて文系学問を重ねていくと、おそらく変に感覚的なものとなり、よく分からないオリジナルとは離れた感受性の鋭さを競うようなものとなってしまうのではないかと思われるのです・・。』

にあるのではないかと考えました。
そこで、この記述についてもう少し考えてみますと、ここで述べたい要点とは『実際に存在する事物と、それらに付与されている名称の対応関係が明確な体系』を個々人が認識、内在化(インカーネーション)することの重要性です。

つまり、それが為されるのであれば、その発端、取掛りとは、特に文系・理系の何れであれ構わないと考えます。

では、何故、事物と名称の対応関係にて明確な対応体系を持つ代表例として理系学問を挙げたのかというと、先ず、理系学問とは概ね、現実の世界に存在する、知覚し得る具体的な何かを対象とした学問であり、少なくとも、その根本においては目に見えない、触れることの出来ない思想・概念といったものの存在はないと考えるからです。

理系学問にて、概念・形而上的な要素が表出されるのは、多くの事物の観察結果から、ある種の普遍性の抽出を試みたことによると云えます。

ともあれ、そうしたこと(事物から普遍性の抽出)を行う為にも、具体的な事物に対する名称が厳密に定義される必要性があり、また、まさにそれが為されていることにより、それら学問とは普遍性が担保されているとも云えます。

一方、文系学問においては、もちろんそれぞれ大変重要ではあるのですが、さきの事物と名称の対応関係が、その先もしくは背景にある概念・思想的なものの性質によってか、同じ文系学問間においても随分異なることが多いのではないかと思われるのです・・。

しかし、であるからといって文系学問に用いる言語をより精選し、共有化、少なくしようとする試みは、それが良心的な意図によるものであったとしても、実際にそれを取り組む段において、当初の意図からは外れた焚書的な行動・結果になってしまうことの方が普通ではないかと思われるのです・・【『政治は可能性の芸術ではない』と云われる所以とはこういったところに具現化しているようにも思われる。】ガルブレイスVSビスマルク(笑))

あるいは、こうした現象については、現在の国際・国内社会などを見ますと、その実状あるいは背景などを理解することが出来るのではないかとも思われます・・。
ともあれ、そこから思うことは、これまでにも幾度か当ブログにて述べてきたことではありますが、自然なカタチでの文系・理系を横断する交流の重要性です。

また、以前に抜粋引用した荒俣宏著『理科系の文学誌』によりますと『極言すれば、東洋は観念として自然科学的事実と神秘的承認とを融合させることができたのである。』(一方で、こうした見解に対して加藤周一あたりからは反論が為されるのではないかとも思われる・・)とのことであり、くわえて東洋においても我が国は、元来そうした『融合』などが得意な文化土壌であると思われますので、そうした状況が自然に醸成されるような環境整備を行えば、感性が生き生きとした若い方々は、思いのほかに早くに馴染んでいくようにも思われるのですが、さて如何でしょうか?【おそらくそれは基礎研究のさらに基礎の部分となるのではないだろうか?】

今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます。

近年、列島各地において生じた地震・大雨・水害・火山噴火といった大規模な自然災害によって被害を被った諸地域の復興を祈念しています。


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