2017年10月29日日曜日

20171029 『男性的・年齢階梯制的・水稲耕作-漁撈民文化』其の4

男性的・年齢階梯制的・水稲耕作-漁撈民文化
『この民族文化は、弥生時代の民俗文化を構成するもっとも重要なものであり、おそらく弥生時代における南方的といわれる文化要素を齎したものであると云える。

この民俗文化は、在来の我が国における農耕文化と比べ、技術集約的な水稲耕作を行うと同時に沿岸漁撈にも従事し、進んだ漁撈技術を持っていた。

また、この民俗文化が持つ社会組織として特筆すべきことは、主に関東~西南日本にわたる太平洋岸、瀬戸内海、そして新潟県から島根県にまで連なる日本海沿岸の漁村にて現在に至るまで多く見受けられる年齢階梯制は、この民俗文化に特有ということである。

また、この民俗文化は、これまに述べた列島に伝来、定着した民俗文化と比べ、すぐれて男性的なものであったと評し得る。

その一方において親族組織としては、父系的ではあるものの、母・妻方の姻戚の地位もまた高く、故に多少の双系的傾向をも示し、社会構造における構成原理あるいは上下の秩序原理として年齢、世代区分原理が支配的であった。

また、村内婚が一般的であり、村内における家格の上下意識はあまり強くない。

くわえて、この民俗文化における著しい特徴とは、分散的といってもよい傾向、習癖である。具体的には一軒の家敷地内に二世代の複数家屋を持つ、もしくは世代別居に関連する家慣習(若者宿、娘宿、寝宿、産屋、月経小屋、喪屋)を持つことであり、これらは当文化において独特の要素であり、そして、それに付随するともいえる成年式、成女式といった習俗もまた、この文化と深く結びついている。

こうした機能、世代に応じて独立の家屋、舎屋を建てる文化形態とは、本来アウストロアジア系ミクロネシア人の文化形態であり、また同時にそれは我が国のみならずポリネシア、メラネシア、ニューギニア、フィリピン、台湾そして中国南部にまで及んでいる。

我が国にこの民俗文化が伝来した時期とは、中国南部の江南地方より紀元前四、五世紀の頃であったものと考えられる。

その理由とは、揚子江(長江)の下流地域から南の沿岸地域一帯とは、三国志の呉・越の地であったが、それら両国(呉・越)の滅亡は紀元前五世紀頃から同四世紀後半であり、この時代は漢族の南方への進出に伴い、非漢族居住地域の動揺、混乱の激しかった時代であったことによるものと考えられる。

そして、この時期と軌を一にして西日本に本格的な弥生式社会が成立すると云える。

それ故、これらの現象の間には浅からぬ関連性があるものと考える。

さらに、この呉・越の文化とは、古来より南船北馬が中国文化の概括を示すコトバであるように、すぐれた船舶、漁撈文化を持っており、同時にそれは魏志倭人伝にて述べられている紀元二世紀代の倭国習俗とも類似、共通する点が多いことにも留意する必要がある。

とはいえ、我が国における弥生式の文化は、おそらく、いくつかの文化が流入したものであり、インドネシアの島々を北上してきた水稲耕作文化もあったかもしれない、あるいはベトナム北部のドンソン(東山)青銅器文化の流れも流入しているかもしれない。

そうして我が国に伝来した文化とは、これまでに述べた他の在来民俗文化とも、その発祥とされる地域的に遠くないことから、比較的受容、結合され易く、そして短期間のうちに列島内にて混淆し、新たな(列島独自の)民俗文化生成の母材(マトリックス)となったのではないかと考える。

もちろん、そうではあっても、伝来された文化も在来のそれも、列島内において順次一様であったはずはなく、その融和、混淆もまた、かなりの地域差、バラつきを持ち、またそれが現在の我々が列島内各地の文化において地域性を看取することが出来る、起源の主たる要因となっているとも考える。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年より現在に至るまでに日本列島各地にて発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被害を被った諸インフラの復旧・回復そしてその後の復興を祈念しています。

新たに噴火をはじめた新燃岳周辺の方々の御無事も祈念しています。』



















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