2017年1月11日水曜日

20170111 2010初秋霧島周辺にて 昨日の続き

A「昨日投稿のブログ記事のその後、霧島の「嘉例川」から再び出立し焼鳥屋に向かう車中での会話を以下に再現します。」

A「いやあ、何だかBさんのお蔭でこちらも楽しくなりましたよ・・(笑)。
それでも嘉例川の駅舎があんなに観光客がいるほど有名だとは知りませんでした・・。」

B「ええ、私もお蔭でかなりレアな写真を撮ることができました。
あの駅は鉄道ファンの間ではなかなか有名なのです。
私としてはむしろ地域の情報に関心を持つAさんがそのことを知らないことの方が意外な感じがしますけれども・・。」

A「いえ、そんな・・私は主に歴史関係の地域ネタには興味を持ちますが、どうも鉄道まではその守備範囲の外になってしまいますね・・(苦笑)。
とはいえ、この「カレイガワ」という地名ですが、我々が住んでいた和歌山にもあったことはBさん御存知でしたか・・?」

B「いえ、それは知りませんね・・本当ですか?」

A「ええ、実は私も先日偶然こちらに来て知ったのですが、また、その用いる漢字は異なるのですが、和歌山市のすぐ南の海南市に魚の鰈で「鰈川」と書く地名があるのです・・。
たしかここは有間皇子の万葉集の歌で有名な藤白よりも少し南に位置し、おそらくこのあたりとは古来、畿内より南下する熊野参詣道の始めの方の難所、つまり山あいの地域であったのではないかと思います・・。
しかし、この海南の鰈川と霧島の嘉例川に何か関連があるのかどうかは私にはよく分かりません。
とはいえ、似たような事例であるかどうか分かりませんが、ここ鹿児島東部の大隅半島には垂水(たるみず)という街がありますが、それと同じ字を用いる「たるみ」という街がたしか神戸の方にあったと思います・・。
これらの間にも、さきと同様に何か関係があるのかもしれません・・。
まあ「垂水」の場合は語義通り「瀧」のある地域につく名称であるとは云われてますが・・。」

B「・・やはりそういうところは研究分野が変っても変わらず関心を持っているものなのですね。
少し安心しましたよ・・(笑)。」

A「はあ、たしかにこういったところはあまり変わっていないかもしれませんね。
また、それと面白いのは、このあたりはご存知のとおり古代隼人の勢力範囲内なのですが、帰りにおそらく寄ると思いますがJR日豊線の「隼人駅」ここは実はCさんの御実家のごく近所なのですが、ここに隼人塚というものがありましてね、ここにある石像の意匠がどうも独特で面白いのです・・。
たしかこのことはたしか白洲正子の自伝にも書いてありましたが、とにかく一度ご覧ください・・。」

B「はあ、そうするとCさんは本当の隼人の子孫であるのですね・・。
それにしても、そうした石像などに関する感覚とは、私はイマイチよくわからないのです・・。
しかしAさんは昔からそういった昔の銅鐸や古墳を見るのが好きでしたが、ああいうものに対する意見、評価とは、どこから出てくるのでしょうか?」

A「ええ、それらは決して出まかせを云っているつもりではないのですが、ああいったものは、ある程度多く見ておりますと、そのうちに向こうの方から何か話しかけてくるような感じがあるのではないかと思います・・。
そして、その話しかけてきたものを自分なりに言語化して、さらに研究者の著作などを読んでいて、その自身が言語化したものに近い見解が示されていたりしますと、何だか嬉しくなり、あるいはそれが異なっている場合、その理由を考えてみるものもまた、それぞれ面白いものであると思います・・。」

B「・・なるほど、たしかにそういった感覚はたしかに文献調査でもあるかもしれませんね・・。
ただ調査する対象の実体が存在するという意味では、案外現在のAさんの研究とも重なる部分があるのかもしれませんね・・(笑)。」

A「・・ええ、そうなのです・・。
実際、最近はそのように考えて、自分を正当化させようとしていたフシがあるように思います。
あ、もうじき着きます!
そこに今、看板がありましたので、もうすぐ着きます。」

B「分かりました、丁度いい時間に着きそうですね。」

「さる熊本、山陰東部、福島周辺にて発生した大地震によって被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」








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