2016年7月2日土曜日

20160702 創造と想起

これまで1年間ブログ記事作成を継続してきましたが、これといった変化、進化などは見受けられません・・。
おかげさまで閲覧してくださる方々は増えましたが・・。
また、一連のブログ記事作成のため、多少の無理はしたようにも思いますが、それでも心身に多大な負担をかけ、これまで一連の記事を作成してきたというわけでもありませんので、その過程の中に現在の私では認識しがたいものの、わずかながらの(良い)変化が継続、蓄積して生じていた(る)のかもしれません・・。
そうであればウレシイのですが・・(笑)。
とはいえ、そうした変化などが現在の私に対し、どのような効果、作用をおよぼしてきたのかとは主観的には認識しがたいものです。

ただ、昨年この時期の私とは、自身の文章を作成することを望みながら、それが出来ない状態であり、(おそらく)それが主要な原因で心身に苦痛を覚え、その状況を打開するため当時周囲にいた方々の勧めにしたがいブログ記事作成をはじめた次第でした。このことは以前も何度かブログ記事にて記したことがありますが・・。

そうした状況から、ここまで1年間、ブログ記事作成を継続することが出来たことは、特に称賛に値するわけではなく、もし、そうであるのならば、それ以前の私とは、日常的に細かい試料作製、機器分析をしたり、研究分野での論文などを読んでおりましたので、そちらの方がおそらく苦労したのではないかとも思います・・(苦笑)。

しかし、その一方において、自身のコトバによる文章を作成し続けたのは、まさにこの1年間でした・・。

・・公表を前提とする文章を継続的に作成するということは、もしかすると、案外とむつかしいものであり、それは創造的行為と見做しても良いのかもしれません・・(であるからといって、私の記したブログ記事全てが創造的な中身があるとは限りませんが・・(苦笑)
・・しかし他方で、全ての記事にそれがないとも思えませんが・・(笑))。

しかし、何れにせよ、私のブログ記事(特に初期~中期)に多く見られる過去に為された対話などを文章形式にて記す場合は、主に創造というよりも想起といった行為であり、そこにはあまり創造といった要素は必要としないのかもしれません・・(苦笑)。

とはいえ、では「創造」行為がどのようなものであるかと考えた場合、創造においても、その原点においては「想起」される比較的明瞭な存在が(複数)精神の中に浮きつ沈みつ存在するのではないでしょうか?

そして、そういった存在の精神内部における混淆、反応などにより、創造が為され、それに形状、文字、旋律などが付与され、様々なカタチで表出に至るのではないでしょうか?

そして、そうした存在の精神内部における実在性の強さ、認識の深さがもしかすると、創造想像を別つものであるのかもしれません・・(ここには個人の知性悟性?が大きく関与するのではないかと思います・・。)。

また、そのように考えた場合、前衛的なものを創造することを欲している場合においても、それが時代、地域を通じ持続的に強い印象をヒトに与えるために創造者は、その精神の内部に「想起」される比較的明瞭な存在を(複数)有している方が良いのではないかと思います・・。

また、別言すると、それが教養なるものの一側面ではないでしょうか?これを読んで頂いた方々はどのようにお考えになるでしょうか?

ともあれ、ここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。

さる四月の熊本における大地震、その後の同地域を含む九州での大雨による被災が軽微であり、大震災からの復旧、復興作業が支障がなく、速やかに為されることを祈念します。







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