2016年6月1日水曜日

20160601 「腑に落ちる」「納得する」について・・

おかげさまで本日、ブログの閲覧者数が80000人に到達しました。

丁度昨年の6月にブログをはじめましたので1年弱の期間でこの閲覧者数となりました。

これは特に早いというわけではないようですが、それでも一つの区切りにはなるのではないかと思います・・。

また現在、昨年の今頃に作成した記事を読んでみますと、何といいますか当時は(も)自分なりに苦労して記事を作成したことが思い起こされます・・。

おそらく当時の私は一つの記事に対し、より多くの情報を詰め込もうとしていたのではないかと思います・・。

そのため現在記しているそれに比べ、内容は多少濃いのではないかと思いますが、同時にどうも硬質な文体に固執し、そのことから表出の仕方に何かしら限界を感じていたようにも思えます・・。

一方、表出する内容に関しては色々な考えが断片的に浮かんでくるといった状況であり、それはそれでモヤモヤとして苦しいものでした・・。

こうしたことを現在想起しますと、あの当時味わっていたよくわからない苦しさは、比較的リアルに思い起こすことが出来、そして、そういった時は何故だかいつも眉間に皺が入ります・・(苦笑)。

いや、もしかするとそのモヤモヤとした苦しさとは今現在もなお続いているものであり、ただ、そういったことを拙劣ながらも言語にて表現、表出できるようになったことによって、どうにかそのモヤモヤと付き合ってゆくことが出来ているだけであるのかもしれません・・。

また、そのように書いてみますと、何だかそうであるような感じがしてきました・・(笑)。

こうしたことを書いた本人が記すのもおかしなハナシではありますが、これもまたなかなか面白い現象です。

また、同時にこのことを書いておもむろに想起したのは河合隼雄が心理学についてどこかで述べていた「心理学とは客観的な分析に用いる手段ではなく、何がしかの心的現象をその本人が腑に落ちるように、心から納得出来るように用いるものである。」といった内容です。

また、そのように考えてみますと本来、心理学を含めた学問全般とは、自身の持つ(本当の)性質に合った形にて世の中を理解(腑に落ちる、納得する)してゆくための枠組み、方法のようなものであるのかもしれません・・。

ただ、その中の幾つかかが、ある種の職業に就く上においてより専門性を高めていったというのが、その原点からの流れではないでしょうか?

そして、このようなことを考えていると、次に想起するのは丸山真男著の「日本の思想」にて我が国社会の特徴として述べられているタコツボ文化です・・。

おそらくこれを読まれている方々の多くは、おそらく私より多読、博識であると思い申し述べますと、ここに述べたことは、学問分野を横断しているものの、あながち的外れな類推ではないと思いましたが如何でしょうか・・(笑)?

とはいえ、ハナシの起点となったことが極めて個人的なこと(モヤモヤとした苦しさ)でありますのでハナシ全体として考えてみると多少事情は違うのかもしれません・・。

また、同時に、ここまで書いてみて思うことは「こうした考え方、発想法とは帰納法的、あるいは文系的なものではないか?」ということです。

おそらくこれに関しては形式的なことになりますので、多くの方が納得していただけるのではないかと思いますが如何でしょうか(笑)?

そして、そのように考えてみますと、断言はできませんが、昨年の今頃に味わっていたモヤモヤした苦しさとは、自身の比較的得意とする帰納法的、文系的な論述、口述をある程度封じざるを得ない状況が続いたことによって生じたものであるのかもしれません・・。

とはいえ、そうはいいましても、私の中には大前提からはじまる演繹法的なものを好む傾向もまた存在すると考えておりますので、簡単にいいますと、自身内部における双方のバランス、調和あるいは双方による相互作用のようなものが何かを創造なり表出する際において重要であるのではないかと思います実際のところはどうなのでしょうか、あるいはどのようにすれば、そうした考えを心から納得し、腑に落ちることが出来るようになるのでしょうか(笑)?

ここまで興味を持って読んでいただいた皆様、どうもありがとうございます。
おかげさまで閲覧していただいた方が80000人に到達しました。

また、去る4月半ばの熊本における大地震にて被災された地域の早期の復旧、今後の復興を祈念しております。」









0 件のコメント:

コメントを投稿