2016年4月21日木曜日

20160420 都市と地方について考えたコト

地震で被災した熊本、九州にて、今度は大雨が降るという天気予報が出たといいます・・。

辛い状況ではあるとは思いますが、被災された地域の方々が出来るだけ早期に安心して過ごすことが出来るようになることを願っています。

このようなことを軽々しく書くことは、失礼であるのかもしれませんが、九州にて数年過ごしたことのある私としては、現実的に、自身が現地に行き、何かしらお手伝いできないこの状況においては、こうしたことを書くこと以外出来ませんし、また、そうした状況を歯がゆく感じます・・。

さて、首都圏にて暮らしておりますと、観光、旅行などで国内地方に行き、そこの魅力を味わうといった趣向、傾向(ばかり)が大変強いように思いますが、実際に、それら観光、旅行などで取り上げられている地方に住み、生活したことがある私から見ますと、どうもそれは違うような感じを受けます・・。

一方、そうした地方に住まわれている方々からすれば、観光、旅行などで地域に「お金」を落としていってくれる観光客、旅行者の方々は、それなりにありがたい存在であるのかもしれませんが・・。

ともあれ、そうした地方に住み、その土地の昔ながらの因習などを含めた、いわば観光向けでない、ホンモノのその土地に根差した歴史、文化に否応なく接し、それらを受け入れなければならなかった人間にとっては、如上のような観光、旅行などのみによって、その地方、地域を知ったかのように考えてしまう状況とは、前述同様、大変歯がゆく感じます・・。

しかしながら、こうした感覚、認識を表出することは、都市部、首都圏在住の方々、地方の方々双方にとって、あまり都合の良いものではないために、あえて放置されるか、あるいは悪い場合になると、何かしら糾弾(別件逮捕的な)されるような場合も少なからずあるのではないかと思います・・。(同調圧力、社会凝集性)

そしてまた、こうした図式とは、特に我が国の場合、自身の国の歴史に対しても同様の傾向が認められるのではないかとも思います・・。

さらに、こうした傾向は、インターネットが普及し、多くの人々が様々な知識を手軽に入手できるようになったことにより、より一層拍車が掛かったような感じをも受けますが、如何でしょうか?

そうしますと、本来、自他の文化をより深く知るための手段としての学問であった昔ながらの文系学問分野全般においても、さきと類似、同様の図式、傾向が強くなってゆくのかもしれません・・。

こうしたことは、もしかしたら、ニーチェが「ツァラトゥストラかく語りき」そしてオルテガ、ウェーバーが各々著作で述べている近代以降の社会の特徴と関連があるのかもしれません・・。

とはいえ、我々が日常的な生活する上において「効率性」とは、きわめて重要なものであることもまた事実であり、それは肯定するのですが・・。


ここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。

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