2016年1月2日土曜日

ジョルジュ・バタイユ著酒井健訳「魔法使いの弟子」景文館書店刊pp.11-17より抜粋20151231

虚偽が画家や作家の職業に関係してくると、さらに一般的に言えば、虚偽が彼らの自我に関係してくると、その虚偽はフィクションをもっと強固な現実に役立つようにとそそのかす。
それゆえ美術と文学は、自己充足した一世界を形成しない場合には、現実の世界に従属して、教会や国家の栄光を称えるのに貢献したりする。

あるいはこの現実の世界が政教分離のように分裂しているならば、宗教のためにしろ、政治のためにしろ、それぞれの分野で行動と宣伝に貢献したりする。
だがその場合は、もはや装飾か他人への奉仕でしかない。

それ以上の事態、つまりもしも人々が仕えていた制度や組織が革命のように人間の運命の矛盾した動きによって揺さぶられることがあるならば、美術は、人間の深い実存に仕えてそれを表現する可能性に出会うことになる。


この場合、その組織の利害が特殊な状況や共同体に関係しているのならば、美術は、深い実存と党派的な行動とのあいだに混同をもたらす。

その党派の人々に対してさえ、ときにひどいショックを与えかねない混同をもたらすのだ。多くの場合、人間は、人間の運命を、フィクションのなかでしか生きることができずにいる。

その一方でフィクションに従事している人間は、自分が描く人間の運命を自分自身全うできないことで苦しんでいる、フィクションの外へ出たところで作家という職業のなかに留まらざるをえないことに苦しんでいるのだ。
だから彼はせめて、彼の心に棲みつく幻影たちを現実の世界へ出してやろうと努力する。

しかしそれら幻影たちが、現実の世界に、つまり行動によって真になる世界に属するようになると、言い換えると、作家がこれら幻影たちを何らかの特殊な真実に関係づけると、ただちに幻影たちは、その特権を、つまり人間の実存をとことん全うするという特権を失ってしまうのだ。

そうなるともはや幻影たちは、この現実の断片化した世界、専門に分かれたこの世界の退屈な反映でしかなくなる。
科学が明らかにする真実は人間的な意味を失っている。
他方で精神が作り出すフィクションだけが、今では奇妙に映ってしまう人間の意志に、つまり人間の運命を全うするという意志に、応えている。となれば、人間の奇妙な意志が本当に完全になるためには、フィクションが真実になる必要がある。
じっさい、フィクションを創造する欲求にもてあそばれている人は、人間でありたいという欲求を絶えず感じているのだ。
しかしそうでありながら、この人は、人間でありたいという欲求を諦めて、ただ幻影や嘘の物語を創造してばかりいる。
この人が雄雄しくあるのは、もっぱら現実を自分が考えていることに適合させようと努力している限りでのことなのだ。
この人の内部の力はどれも、この人が生まれでてきたこの現実世界、できそこないのこの世界をきまぐれな夢想の言うなりになるように要求しているのである。
しかしこの内的な力の要求は、ほとんどの場合、不明瞭なかたちでしか現れない。
科学のように人間味のないまま現実を映し出すことはむなしく見えるし、フィクションのように現実から逃れるのもむなしく見えてくる。
唯一行動だけが世界を変えようと、世界を夢想に似たものへ変えようと、申し出ている。
〈行動する〉という言葉は、エリコのラッパの大音響とともに人々の耳のなかに響き渡る。これほどに荒っぽい効果を持つ命令はない。
これを聞いた者は、行為に向わねばならないと、即刻、無条件に迫られる。
他方で、人間をつき動かすあの意志を実現するようにと行動に要求する人は、ただちに奇妙な返事を行動から受け取るのだ。
夢想をかかえて行動の世界に乗り込んできた新参者は、効果的な行動を求める意志とはただ死んだような夢想を求めるだけの意志なのだと知る。彼は同意する。そして徐々に理解していく。行動は、行動したという利点しか自分に残さないだろうということを。
彼は、自分の夢想に拠りながら世界を変えようと思っていたのだ。しかしじっさいは、とてつもなく貧しい現実に合わせて自分の夢想を変えてばかりいたのである。
結局のところ彼は、自分が持っていた意志を自分のなかで窒息させることしかできなかったのだ。〈行動する〉ことができるようにするために、である。
行動を欲する人に行動が最初に求める断念、それは、自分の夢想を、学問が描き出す規模に縮小するということだ。
他方で、人間の運命に、フィクションとは違う領域を、たとえば政治の領域を与えたいと思っても、この欲求は、政治の教条主義者たちから軽蔑される。

もちろん、過激政党の実践の世界ではこの欲求が遠ざけられることはまずない。というのも過激政党は、闘士たちに命を賭けるように求めているからだ。とはいえ、戦うという条件だけでは一人の人間の運命は現実にならない。さらに必要なのは、この闘士が加わって死に直面している陣営の軍勢と、この闘士の運命が合致することだ。

その一方で、教条主義者たちは、一人の人間の運命を好きなように操作して、この運命をすべて同じような物質的幸福に縮小してしまう。
行動の言語は、合理的な原則に合致した定形表現しか認めない。

学問を規制し、学問を人間の生と無関係なままに維持しておく、そんな合理的な原則にかなう単純な定形表現しか認めないのだ。

実存が神話伝説上の英雄という人格的な形態で定義され姿を取るのと同じような仕方で一個の政治行動が定義され、具体的な姿を取りうるなどとは誰一人考えない。
彼ら教条主義者たちをもてあそんでいる欲求に応えるのは、唯一、生産物や文化所産の適正な配分だけである。この欲求は、人間の顔やその表情(何か渇望したり、喜び勇んで死に挑んだりする表情)に似ているもの一切を避けて通ろうとする。

すでに死につつある一群の英雄に語りかけるようにして闘争中の民衆に語りかけるのは断固憎むべきだと彼らは頑なに思い込んでいる。ということは、言わば自分自身の傷口からすでに血を流している人たちに対して彼らは損得の言葉を用いて語りかけているということなのだ。

行動の人々は、実存するものに従っている、もしくはこれに仕えている。
彼らの行動が反逆である場合でも、彼らは実存するものに従っている。
実存するものを破壊して人々から殺されることになっても、まだそうなのだ。
彼らは、破壊を行っているときにも、事実上、人間の運命にもてあそばれている。
逆に彼らが、彼らの世界の顔のないままに秩序づけようという意志しか持たなくなったときには、人間の運命はあっというまに彼らから離れていく。

だが、彼ら行動の人々の破壊が成し遂げられるやいなや、この破壊されたものは再び自分を建設しはじめて、他の人たちと同様に行動の人々にもつきまとって彼らを翻弄しだすのである。

夢想、形の定まらないあれこれの夢想は、学問と理性によってむなしい定形表現に縮小され、もはや〈行動〉が通り過ぎるときに立ち上がる埃にすぎなくなってしまう。
彼ら行動の人々は、彼ら自身、奴隷化する一方で、行動に抗うすべてのものを叩き壊していく。他の人々に先んじて彼らは行動の必要性を被ったわけだが、彼らの後に現れてこの行動の必要性に屈せずにいるすべてのものを叩き壊していくのだ。しかしそうして彼らは、彼らを運んでいく運命の流れ、彼らの無力な動乱がかえって加速させるあの流れに、ただ盲目的に身を捧げているだけなのだ。

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