2015年7月18日土曜日

ベネデット・クローチェ著 「思考としての歴史と行動としての歴史 」フィロソフィア双書23 未来社 pp.40-44より抜粋

歴史とは歴史的な判断であると述べるだけでは充分ではなく、さらに付け加えてこう述べる必要がある、すなわち、あらゆる判断は歴史的な判断である、あるいは全くのところ歴史そのものなのだ、と。

判断とは主語と述語の関係のことであるとして、主語すなわち判断される事実は、それがどのような事実であれ、つねに歴史的な事実、生成しつつあるもの、進行中の過程なのであって、実在の世界においては不動の事実といったものは見出されもしなければ想像もできないのである。

たとえば、わたしがわたしの足の前に見ている物体は石ころであり、それはわたしの足音を聞いても小鳥のように自分から飛び去ることはないであろうから、足か杖で除けるのがよいであろう、というような一目瞭然の判断的知覚(もし判断が働いていないならば、それは知覚でもないのであって、盲目のもの言わぬ感覚であるにすぎない)にしてから、やはり歴史的な判断であることに変わりはない。なぜなら、この石ころも、本当を言えば、自分を解体させようとする諸力に対抗し、たとえ屈服するにしても易々とは屈服しまいとしている一個の進行中の過程なのであり、わたしの判断はそれの歴史の一局面にかかわっていることになるからである。

しかしまたここで停止してしまってもまだ駄目なのであって、さらにいま一歩を進めて、つぎのように結論しなければならない、すなわち、歴史的判断は単に種々ある認識のうちの一つの階級にとどまるものではなく、認識そのもの、認識の分野全体を隈なく満たし、それ以外の認識形式の存在する余地を残していない、そのような認識の形式なのである、と。実際、あらゆる具体的な認識は、歴史的判断と同等に、生すなわち行動に結びついたものであらざるをえない

それは行動の一時停止あるいは待機の契機なのであって、そもそも行動というものは、さきにも述べたように、状況から出立して、それに規定され特殊化された形態において生起せざるをえないわけであるが、その肝腎の状況をそれが明確に見通すことができないでいるとき、その自らの前に立ちはだかる障害を除去しようとして、認識の行為は生じてくるのである。

認識のための認識などといったものは、一部の者たちが想像するところとは異なって、なんら貴族的なものでもなければ高尚なものでもなく、実のところ、白痴の、またわれわれ各人のうちに潜む白痴的契機の、呆けた暇つぶしのようなものであるばかりか、そもそも、実践の刺激がなくなれば、認識の質量そのもの、そしてまた目的の失われてしまうのであるから、本質的に存在しえないのであり、それゆえ現実に起こることもない。そして芸術や思索の仕事にたずさわる者が自分を取り巻く世界から身を隔絶し、卑俗な実践的対立―実践的であるかぎりにおいて卑俗な対立―には慎重を持して参加しないことを救済の道であると考えて、そのような態度をとろうと意図している知識人たちは、こうしてほかでもなく、知性の死を意図する結果になっていることに気がついていないのである。

労働も苦悩もなく、なんら克服すべき障害に出会うこともない楽園の生活においては、およそ思考の動機そのものが消失してしまっているのであるから、人は思考することもないのであり、また、活動的にして制作的な直観は実践的な闘争と情念との世界を自らのうちに包み込んだところに成立するものであるから、厳密には、人は直観することすらないのである。

数学という補助手段をもついわゆる自然科学もまた、生きようとする実践的欲求にもとづいて成立しており、その欲求を充足することを目指していることについても、これを論証するのに労力は要さない。というのも、この信念は近代初頭におけるその偉大な鼓吹者フランシス・ベイコンその人によってすでに人々の頭の中に植えつけられていたからである。しかし、それにしても、自然科学が真の認識となってこの有益な任務を果たすのは、それの過程のどの時点においてなのであろうか。
抽象を行い、分類を作り、それが法則と呼ぶところの分類された諸事物間の関係を立て、これらの法則を数学的定式を与える、等々のことをしている時点においてでないことはたしかである。これらはすべて、既得の知識を保存したり新たに獲得し直したりすることを目指した接近の作業ではあるが、認識の行為ではない。
医学上の資料の一切、病気のあらゆる種類とそれぞれの特徴とを書物にまとめたり記憶したりして所有することはできても、これだけでは、たしかにモンテーニュの言葉であったと思うが、「なるほどガレノスはいるが、しかし患者がいない」わけであって、数多く編纂されてきている世界史のうちのどれか一冊を所蔵していたり、その内容を洩らさず記憶していても、もろもろの事件の刺激の下でそれらの知識がその静止した硬直状態を破って躍動し始め、思考力が政治的その他の状況を思考するようになる瞬間が到来するまでは、歴史についてほとんど何一つ認識していることにはならないのと同様、たとえ医学の専門家といえども、直接に患者を臨床し、まさしくその患者が、そしてただ一人の患者のみが、かくかくしかじかにして、またまくかくしかじかの状態の下で患っている病気を、そしてそのとき、それはもはや一般化された定式としての病気ではなくて、或る一つの病気の具体的にして個的な現実なのであるがそのような病気の具体的にして個的な現実を直観し理解するときが到来するまでは、知性がまだ理解していないか充分には理解していない個々の事例から出発する。
そして、長い複雑な一連の作業を遂行し、こうして準備のできたところで知性をそれら個々の事例の前にふたたび連れてゆき、それらと直接に交わらせて、それらについての正しい判断を形成させるのである。
小林秀雄「科学する心」

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