2015年6月22日月曜日

20150622 湯浅博雄著 「バタイユ・消尽」 講談社学術文庫刊 pp.95-100より抜粋


社会の同質性と生産活動

 見たように、20年代から30年代には一方で第三インター、共産党の革命運動があり、他方でそれに対抗する社会運動が勃興した。その最も強力なものがファシズムだった。

既に22年にイタリアではファシスト党が政権を握り、やがて29年の世界恐慌による経済、社会危機のなかでナチスが政権の座につく。

フランスでも、親ファシズム的な国家主義、民族主義、反共産主義、反ユダヤ主義の勢力が台頭していた。


 「ファシズムの心理構造」(1933)は、バタイユの考察が(当時としては)どれほどものだったか、どれだけの射程を持つかをよく示している。大恐慌による資本主義経済の破綻、失業者の増加と社会の混乱、国外に資源と市場を求め、独占しようとする帝国主義的競争の激化、国家主義の鼓吹と軍事力強化、等々の状況は、マルクス主義が分析している。こうした状況のなかで、ファシズムが興隆したのは確かである。

しかしバタイユは、経済的諸要因の分析だけではファシズムの総体を解明することができないと考える。その「独特の心的構造」まで踏み込まなければならない。そのためにバタイユは同質性と異質性という考え方を、社会のレヴェルで展開する。


 近・現代の産業社会において、同質性の基礎をなしているのはなにか。それはまず生産活動である。資本制生産では、生産手段を所有する階級(生産手段を購入し、設置・維持し、労働者を雇う資本=貨幣を所有する人々)が、生産活動を主導する。

それだけでなく、生み出された生産物を商品として流通させる仕方、それに応じて消費される仕方も導いている。

大衆は自分で好きなように消費していると思っているかもしれないが、基本的には(資本)が商品として流通させたいものを―消費させている。

それゆえ生産―拡大再生産の活動が社会の中心を占め、流通(交換)過程も消費過程もその中心軸に即してオルガナイズされる。


したがってそこでは、生産―拡大再生産に役立つ事が最優先され、ものごとや人間を測る尺度になる。たとえば利益をもたらす(貨幣=資本を増殖させる)もの、効率よく生産性を高めるもの、規律ある行動・道徳(能率のよい労働・勤勉さ)などが評価されるのは、当然である。だがそれだけではなく、富やエネルギーを費やすのを留保し、慎み、蓄積して再投資すること、合理的に考えて活動すること、(理性)的に判断する事、目的に到達しようと目指すことなども評価の基準となる。こうした尺度に照らして「悪い」もの、なにも有用性のなにものは嫌われ、抑制され、縮減され、排除される。社会全体から、というよりも「社会の同質的領域」から、である。


バタイユの見方では、社会の同質性は、邪魔になる部分、有用性を欠き、意味あるものにはなりえない、(異質性をおびた)エレメントを抑制し、排除することで(より精確に言えば、排除しつつ、欺瞞的に同化し、抑え込むことで)形成されている。


 同質性の危機と異質的エレメント

近・現代産業社会では、資本=貨幣を所有する人々が生産(流通・消費)過程を主導し、「社会の同質的領域」を基礎付ける。いわゆる中間階級も、この同質性に包含される。彼等は、資本所有者たちが組織する生産―流通―消費―再生産の回路の中で中核的役割を演じ、そこで生じる利益の相当部分を分有する(そう信じる)。それゆえ共通の尺度に同化し、当然のものと考える。


しかしブルー・カラーの労働者や下層庶民たちは、曖昧な両義性を示す。

彼等は一方では生産(流通・消費)過程に組み込まれており、尺度を受け入れている。工場や作業現場や商店で働くとき、彼等は労賃をもらうために社会組織の枠組と回路に入らざるを得ない。

だが彼等は、その回路において半端な、しかし厳しい役目を務め、利益のうち少ない部分しか手にしない。

それゆえ彼等は、学校教育や(教会による)宗教道徳教育もあいまって、職業上のふるまいとしては「同化した」心性も持ち、共約可能な部分も有していたが、他方で同質性からはみ出した部分、尺度に服さず、共約しがたい部分も多く持っていた。


工場の外、作業現場を離れたところでは、労働者大衆・下層庶民は「同質的な」人間たちにとっては一種の(異邦人)、別種の人間だ。規範や法に従うとは限らない人間、合理的に考えて行動する仕方からすぐに逸脱しやすい人間、何か荒々しさをおびている人間である。


資本制生産(流通・消費)過程が安定して拡大する限り、こうした同質性は揺ぎなく保たれる。つまりそこから排除された部分、マルジナル(境界)化されたエレメントは抑え込まれたままである。

しかし大恐慌による資本主義経済の破綻、大混乱は社会の同質性が揺らぎ、亀裂を受け、分解する危機をもたらした。

これまで排除されつつ(欺瞞的に)同化され、抑え込まれていた部分、異質的なエレメントは、もう尺度を受け入れることを拒み、変化を求めて沸騰し、揺れ動く。

この危機に敏感に反応し、「克服」しようとする運動の一つがファシズムだ。むろんもう一つは「共産主義」的な革命運動である。


「共産主義」もファシズムも、庶民大衆に働きかけて動員しようとする。

既成秩序(議会、政党、内閣、官僚制、大資本ブルジョワジー)に対立し、大衆行動によってそれを転覆し、権力を奪取しようとする。

共産党は労働組合等に組織された労働者を動員し、ファシズムは未組織の、アモルフな下層庶民を行動隊へ組織する。

しかしいずれにせよ社会の下層に位置し、同化されてしまわず、共約しえない部分を多く持った民衆を革命的行動へと促し、いかにも(民衆自身が主役になるように)と呼びかけているには変わりがない。

主な主張は利益を再分配し、民衆に重要な部分を与える事だが、しかし経済的要求だけではなく、資本制的な尺度に服さない(異質的な)心性・感性を「解放する」という主張も含んでいる。

むろん見せかけに過ぎないが、そこに民衆のみならずかなりの知識人を魅惑した理由があると、バタイユは考える。


 ファシズムは異質性をおびたエレメントを巻き込み、作動させる。「黒シャツ隊」やSAとして行動する下層大衆は、物質的な面での貧困さによる(汚辱)、規範や道徳を守らぬ(荒々しさ)、合理的に考え、ふるまう仕方からすぐに逸脱する(危険性)などを秘めている。

またファシズム主導者はふつうのリーダー・政治家に較べると、異様に突出した印象を与え、まるで議会や政党政治、その法制度を(はみ出す力がある)かのごとき感じを抱かせる。


なぜナチス党員、ファシスト党員にとって、ヒットラーやムッソリーニは異様に魅了する力に溢れている、いわば通常の合法性を越える力が集中している、と受け止められるのか。それを解明するために、バタイユはまずファシズムの「軍隊的な様相」を考察することから始める。


バタイユ (講談社学術文庫)
  • ISBN-10: 4061597620
  • ISBN-13: 978-4061597624






  • 0 件のコメント:

    コメントを投稿