2015年6月29日月曜日

銅鐸について 2 銅鐸を用いた祭祀について

銅鐸祭祀が行われた社会とは、弥生時代の水稲耕作を主軸とする社会であり、それ以後の古墳時代における様な社会の明確な階級分化は為されていなかった。

この様な社会とは、それ以前の縄文時代における様な生産性は低いものの原始的平等を保持していた社会と、古墳時代における様な生産手段が安定し且つ神聖とされる王、権力者の為に壮大な墳墓を造営した社会との過渡期であるといえる。

そこには古墳時代以降の一人あるいは少人数に集約される神格は代を通じ持続して存在しない一方、縄文時代に比べ複雑に体系化された自然崇拝的な信仰は存在していたと考えられる。
銅鐸とはその様な時代、社会、そして信仰の祭器であった。

出土した銅鐸を様々な要素によって分類することは可能である。しかし、それらがどの様な祭祀に用いられていたかは、全て想像の域を出ない。それ故、その祭祀を具現化しようとする場合、記録された過去、現代の祭祀を重ね合わせ、さらにそこに銅鐸の役割、機能を重ね合わせることより、ある程度の妥当性は得られるのではないかと考える。
以上のことを踏まえ、その具体的祭祀形態の記述を下に示す。

 村外れの鎮守の森ほどの、円形、方形の広場があり、参道がついている。広場の周囲と参道沿いには玉垣の様に鳥竿が立ち並び、広場の中心には巨木が立っている、そしてそのやや奥まった所に二棟の高床の建物があり、そこに男女の木彫りの彫像が置かれてあり、種籾も保存されている。春祭りの日、広場中心の巨木に銅鐸が懸けられ鳥装の神官達が神像を取り出し、性的和合の所作をする。鹿を犠牲に捧げ、種籾をその血に浸す。また、海辺の村では、祖霊または穀霊を迎える為、舟を漕ぎ出してゆく、村人は酒盛りし、歌い、大地を踏みしめて踊り舞う(金関(2004)p.27)
弥生の習俗と宗教
 
上に示した記述により銅鐸祭祀形態をある程度具現化できたものと考える。また、銅鐸は引用記述内の春の祭祀のみならず雨乞い祭祀を含めた当時の祭祀全般に用いられたものと考えられている。
しかし、その後の時代において祭器としての銅鐸を見出すことは皆無である。その理由とは、弥生、古墳時代間に広域を統一する王権が樹立したことにより、地域社会における祭器としての性質が強かった銅鐸は、統一王権の安定化を阻害するものとして廃されたからと考えられている。

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